
ひところよく読んだシモーヌ・ヴェイユの本の中に、今でも美しく思う「祈り」に関する言葉がある。
「神に祈る。人から離れて静かに祈る。神は存在しないと思いつつ祈る」
神は存在しないと知りつつ、しかし祈ること自体をやめない。これが「祈り」というものの正しい姿だろうと思う。
とても美しい言葉だから、いろいろな意味を乗っけられがちだ。
神は存在しない、しかし、存在しないからといってそこで祈ることをやめても仕方がない。動かない壁を前にして、それでも動けと祈り続ける力がいつかその壁を突き崩す力になるのだ、等々。
シモーヌ・ヴェイユ自身も他のところでは似たようなことを言ってるのだが(「神の無関心を知れ。徹底的な隔たりを知れ。その理解の上にのみ、その大きな隔たりを通して一つの穴があく」など)、むしろ「穴があく」ことなど何も期待しないで祈ることの方が、僕は正しい「祈り」の姿勢じゃないかと思うのだが。
存在するかしないかはさておき、神は徹底的に我々に対して無関心である。そのことは知っておかねばならない。
知った上で、でも一人で祈るのだ。神様なんかいないんだけど、と思いながら。
普段は僕はこういう風に思っているので、当然のことながら僕は信心深い人間ではない。一般的な意味での神仏は信仰しない。
一つの文化として尊いと思っているので寺や神社に行けば賽銭は投げるし手も合わせる。気が向けばおみくじを引いたりもする。が、それは信心とか信仰とかいうようなものではなく、あくまで慣習的なものでしかない。おみくじで凶を引いたからといっていちいち気にしてたら生きていけない。
僕は自分に幸福な出来事が訪れますように、というような願いを神仏に訴えるようなことはしないし、神様ってそんな御用聞きみたいなもんじゃないだろう、と思う。
・・・・・・
こんな書き出しのくせに、ある願掛けがあって、仕事を半休して南大阪にある寺に出かけた、という話をする。詳しくは書かないが、願掛けとはヒナコに関することだ。
電車で1時間半、小学生の頃、その近くに住んでいたので名前くらいは知っていたが、参詣するのは初めてだった。
不動明王の寺で、日本三大不動の一つ、なんてパンフレットに書いてある。知らなかったな。
願掛けに電車を乗り継いで寺院に参る、なんて、今までの自分では考えられなかった。
「神様ってそんな御用聞きみたいなもんじゃないだろう」なんて言ってる人間が、である。
御守りを買い、護摩木を書き、祈祷料を払って護摩供の法要を受ける。
火が焚かれ、良く通る低い声で誦経が始まる。「形振り(なりふり)構わず」という言葉を思い出し、一生懸命祈っている自分の姿を一瞬自嘲するが、すぐにそんなことはどうでもよくなって、太鼓と誦経の声に心を寄せていく。
中央の壇で次々と火が焚かれる。
僧侶は火を焚く人、誦経をする人、誦経の補助(コーラス要員)の三人だが、誦経の人は途中から大太鼓の前に席を移し、力一杯叩きながらの誦経になる。芸として、実に見事である。太鼓奏者としても相当の腕前だ。その「芸」と迫力に感心する。聞き惚れる。
信心とか信仰とか、それは認めるか認めないか、あるかないか、を問うものではないと思う。
ただそこに心を寄せてみる。本当に必要なのは誦経でも太鼓でも火でもない。結果的には触媒となるものは何でもいいのだ。一点に向う心の道筋をつけてくれるだけの役割でしかないのかもしれない。
火を見つめ、太鼓の振動に身を預けながら、実際に何かが祓われていくのを感じる。祈りながら、気持ちの芯が静まりかえっていく。
ここで文章の最初に戻る。
神は存在しないと思いつつ祈ること。
もちろんこの世には神もいなければ悪霊もいない。火や誦経で祓うのは悪霊などではない。一心に、一点に、心を向けること。それが祈るということだ。
祈っても御利益なんかないし、悪い何かが消えてなくなるわけではない。
ヒナコのことでの願掛けで不動参詣に来た、ということ自体すでに矛盾しているというか、正直意味などないことだとわかっている。むしろそういうことをわかっていながら来てしまうということは気休め、もっと言うならば問題の所在をうやむやにしてしまう卑怯な行為かもしれない、とまで思ってしまう。
しかし問題が自分の手ではどうにもならないことである場合、ではどうするべきなのか?
やはり祈るしかないだろうと思う。神は存在しないと思いつつ。護摩供に意味なんかないと理解しつつ。一心に祈れば願いは成就するなんてまったく嘘であると理解しつつ。でも一心に心を向ける。
・・・・・
支離滅裂なことを書いてきた。自分でもよくわかっていないのだった。見返りを求めずに祈るということの意味を、つかまえきれずにあがいている。
しかし不動明王の御加護があってか、まったく無関係になのか、懸念されたヒナコのある問題が快方に向かった。神仏に祈ったことが功を奏した、などという結論にしてしまったら今まで書いた文章が無意味になってしまう。また、今までの主義主張を曲げて不動明王に参拝までした自分の手柄を誇るような勘違いも馬鹿馬鹿しい。
が、理由はともあれ、何かに礼を言いたい気持ちでいっぱいなのだ。
礼を言わせてくれ。不動明王。やるじゃん!
ここまで真面目に書いておいて、こういうオチか、とか怒らないように。
この文章のほとんどは昨日書いていたのだが、検診での好結果を聞いて最後を付け足したというわけです。
ヒナコ、お前には不動明王がついてるぞ!
言ってること、全然違うやん(笑)
- 2007/01/30(火) 20:39:50|
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最近ちょっと写真家らしくなってきたというか、単なる貧乏だろというか(笑)、使わなくなったカメラを、わりと躊躇なく手放してしまう。どうもカメラ機材に対する執着がなくなってきた。
ま、「機材にこだわらない」=「写真家らしい」という発想もどうかとは思うが。じゃ、ただの貧乏の話なのか。いやまぁ何でもいいのだが。
そのカメラが必要かどうかは、性能的な評判とはあまり関係がない。いくら名レンズと言われようが相性が悪ければ売ってしまうし、もちろん安いカメラで重宝しているものもある。そう、ただただ「相性」の問題である。
コニカ・ビッグミニFは、言ってみれば平板な写りの凡庸なカメラだが、カバンの隅にいつでも入れておけるという一点において、僕には代え難い名カメラである。
ところがビッグミニよりはるかに素晴らしいレンズを搭載した同じコニカのヘキサーは、その中途半端な大きさと使用感のせいでお払い箱になってしまった。
3枚玉の単純なレンズなのに面白いくらいよく写り、一時は相当愛用もし、自分にとっては重要な写真を何枚も生み出してくれた二眼レフ海鴎4A。しかしこれも放出決定である。
良いカメラだし軽くて重宝なのだけれど、やはりブロニカS2とニューマミヤ6というロクロクの両輪に挟まれていまいち存在価値が見えなくなった。
同様の理由でペンタコンシックスTLもすでに放出済み。
生まれてはじめて買った一眼レフはニコンFEで、次がFE2だったが、もう2台とも手元にない。
元々売ったり買ったり、入れ替わりの激しい方だったのだけれど、最近は売るばかりで補充をしないので、機材は減るばかりだ。
そんな中で、僕が写真をはじめたごく初期から、ずっと持っているものは何か、と考えてみた。
今保管している一番古いネガが1991年のものなので、僕が写真をはじめてどうやら15〜16年経つらしいのだが、最初の一眼レフ、ニコンFEに付けて使っていた2本のレンズ、トキナーAT-X90mm F2.5マクロとシグマ28mm F1.8アスフェリカル。この2つが僕の所有期間の一番長い機材なのだった。
正確にはシグマ28mmは一度路面に落として後玉を割ってしまったので、当時持っていたのはニコンMF用だったが、新しくEOSマウントのものに買い直している。
というわけでトキナーAT-X90Mに
「15年間売られず&壊れずに生き残った凄い奴」賞を差し上げる。拍手。
開放でソフト、少しでも絞ればキリリと引き締まる良いレンズである。色乗りも良く、モノクロだとT-Maxを使ったときの暗部の色っぽい写りが好きだった。
当初ペンギン写真に没頭していた僕が動物園で使う標準レンズ的存在であり、ときにはトキナー製×2テレコンバーター(ダブラー)を付けて180mmF5の望遠レンズに変身した。ダブラーを介したこの「180mm F5」の性能も、多少コントラストは落ちるものの、その柔らかさが決して悪くはなかった。
南米チリへのフンボルトペンギン調査旅行にも連れて行き、モーターゴムボート「ゾディアック」の上から岸壁のペンギンの巣を撮ったのもこのレンズだ。
(このあたりの話はメインサイトの「text」ページ、
「ゾディアック!」 をどうぞ。)
しかし動物園に行くことも少なくなり、写真の興味がペンギンから路上に移るにつれ、この90mmレンズも使われることが少なくなった。
このレンズばかりではなく、当時所有していたニッコール105/1.8、180/2.8、トキナー100-300/4などという望遠系レンズが役目を失い、次々と中古屋に売られた。しかし、なぜかこのトキナー90だけは、使いもしないのに売らずにとっておいた。妙な愛着があった。
・・・・・・
で、売られずに残ったこの90mmに、新しい仕事をしてもらうことした。
かつて生き物系で活躍したこの老職人に、新しい「生き物」を写してもらおう。
ヒナコである。
今まであまりマクロレンズとしての使い方では使ってこなかったのだが、ヒナコの小さい手足を記録するにはもってこいの焦点距離&近接性能ではないか。
15年前、相方と一緒に動物園でペンギンばかり撮っていた。
僕はニコンにトキナー90mmで。相方はEOSにEF100mmF2.8Mで。
今、その頃と同じレンズで二人でヒナコを撮っている。感慨深い。
・・・・・・
*冒頭の写真 : Tokina AT-X90M with KAMAUCHI. photo by 相方
*Tokina AT-X90Mで撮った写真、例えば、
http://www.flickr.com/photos/kamauchi/368103313/
- 2007/01/24(水) 22:35:30|
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■小谷野敦『新編 軟弱者の言い分』(ちくま文庫)
むー。最初どうノればいいのかよくわからなかった。が、ノリ方をつかんでしまえば滅法面白い。
この人の魅力を一言でいうならば「ありあまる知識の無駄遣い」。
ここまで無駄に、軟弱に、物事を語って良いのか小谷野。
いいらしい。
■名取春彦・上杉正幸『タバコ有害論に異議あり!』(洋泉社)
医学者が語る前半と社会学者が語る後半。
僕は絶対に前半が面白かった。が、世の書評を読むと、みんな後半の上杉の部分を褒めている。
そうかぁ? くどくて、半分の行数で書けることを冗長に書いてるだけじゃない?
■中野翠『よろしく青空』(毎日新聞社)
毎年、年末に出版される中野翠のエッセイで一年をしめくくるのが定例だったのが、今年は忘れていて、年が明けてから買った。
一年のおさらいをするにはちょうどいいんだけど、さすがにもう15年くらいになるとマンネリだな。ちょっと鈍ってきた感じ。
■赤城耕一『銀塩カメラ至上主義!』(平凡社)
駄作。ブッとい本で、さして面白くもないのに、なんとなく最後まで読んだ。
時間の無駄だった。
赤城耕一って、昔はもっと切れ味いい文章書いてたのにな。読む価値なし。
■フランク・ホーヴァット『写真の真実』(トレヴィル)
僕のメインサイトにある「写真集を買いに」の コーナーでクーデルカをとりあげたら、写真家の須藤秀澤さんがわざわざメールで「クーデルカならこういう本もありますよ」と教えてくださった。感謝! 速攻古本屋サイトを捜索して入手しました。
クーデルカにサラ・ムーン、マルク・リブーにジャンルー・シーフ、ヘルムート・ニュートン、ジョエル・ピーター・ウィトキン等等等・・・そうそうたるメンバーへのインタビュー集! 凄い!
1994年初版かぁ。迂闊にも知りませんでした、この本。
須藤秀澤さん、ありがとうございます! すごく面白いです!
- 2007/01/21(日) 00:35:41|
- 読書狂
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僕は占いというやつが嫌いである。
「嫌い」なんて、別に嫌う必要もないはずで、嫌いなら占ってもらわなければいいだけの話のはずだが、朝のテレビ番組を見るともなしに見ていたら勝手に「今日の双子座は運勢最悪!」なんて占ってくれたりするから腹が立つのだ。
占いなんて嫌い、というくらいだから全く信じてはいないはずなのに、どうして信じていないものを気にするのか、などとあなたは聞くだろう。
信じていようがいまいが「お前は今日最悪だ!」なんて言われて平気でいろという方がどうかしてる。アホにアホと言われても気にするな、みたいな話だが、アホにでもアホ呼ばわりされたら腹は立つのである。誰にも「今日のお前は最悪」なんて断定する権利などない。プンプン。
当然、金を払ってまで占ってもらう、なんてことはしたことがない。
したことはないが、良く当たる占い師というのがいるのも理解できる。何々占い、なんて種類は多種多様あれど、きっと奴らは人相見に長けているのだろう。人間訓練すれば、人の顔を見てその人のことの大半はわかるようになるはずである。だからきっと手相見とかも、手を見るフリをして顔を見てやがるのだ、多分。
別に占い師の悪口を言いたいわけではなかった。細木数子とか大嫌いだが、別に占い師一般を憎んでいるわけではない。細木数子の悪口言ったら死ぬって? 殺してみろってんだ。細木数子のバカバカバカバカ。子供か俺は。
どうも話がそれる。細木数子なんてどうでもいい。
ところであなたは細木数子と橋田壽賀子、どっちの方が嫌いですか?
・・・・むむむ。難しい。
だからどうでもいいって言っとるやろが。
などと言いつつ・・・。
ひとつだけ信じている占い(?)が、なくもない。実は。
もう4〜5年も前になるか。京都四条河原町の近くに、ずっと前から気になっていたちょっと変わった建物があり、いやちょっとどころか相当面白いのだが、とにかく水車の羽やらガラクタやらいろんなものが外壁にくくりつけられたり積まれたり、これは一体店なのか廃屋なのか、よくわからなかった。
だがある日前を通りかかると戸が開いていて、実は古道具・古いおもちゃを売っている店だとはじめて知った。
「はぁー、ここ、お店だったんですねー」
と入って行くと、小柄な(そしてなんだか怪しい)中年の男性が中にいて、
「わし体が丈夫やないねん。せやよってあんまり店開けてないんや」
「そうなんですか」
と、その怪しい風貌の店主は僕の顔をじっと見て、いきなり
「あんた」
「はい」
「ゲージュツカの顔や」
「はぁ?」
「ゲージュツカの顔しとる。で、大器晩成や」
正直言うならば、僕はそのとき首からヘキサーを下げていた。
この怪しい建物がアンティークショップと知って入ってくる男で、しかも首からカメラを下げていて、ゲージュツに興味がない人間がいたらお目にかかりたい。
実際「あんたゲージュツカやな」と当てずっぽうに言っても「いえいえ、決してそういう者では」と否定される確率は少ないだろう。
しかし、である。
いきなり言われれば面食らう。面食らいつつ、嬉しくなかろうはずがない。
「そ、そうですかぁ」
結果として、鉄腕アトムのソフビ人形を一つ買って帰ったことは、もしかしたら黙っておいた方が良かったかもしれない。
しかし、これをオッサンの商才と考えるよりも、「そうか、大器晩成か」とニタニタ考えてしまってもまぁいいじゃないか、などと思っている私は・・・はい、占いを馬鹿にする資格はありません。
- 2007/01/19(金) 22:16:10|
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去年5月に書いたブログ。
http://kamanekoblog.blog58.fc2.com/blog-entry-10.html本橋成一監督『ナミィと唄えば』を見に行っての感想ですが、やっぱりこの映画、2006年僕的オスカーダントツの1位でした!
って、まぁ、僕あんまり映画見ないんだけど(笑)。
姜信子『ナミイ!八重山のおばあの歌物語』(岩波書店)という原作(?)があって、この本の執筆と映画の撮影が同時進行で進んだという、不思議な成り立ちの映画ですが、読んでそして観てみればわかります。この映画と本は不即不離のセットなのです。1時間40分の映画には収められないあふれるものを本で堪能し、また映画に戻ってナミィの世界に耽溺する。
そうするためには、やっぱりこの映画はDVDで持っているべきで、好きなときに本と映画とを行き来できるようにするべきなのです。
という夢が、やっと叶いました。
『ナミィと唄えば』、ついにDVD発売です!
http://www.ne.jp/asahi/polepole/times/polepole/index.html買いました! 観ました!
やっぱり素晴らしい映画でした。
ポレポレタイムス社で通販してくれます。ぜひ観ていただきたい!
姜信子の本も、絶対一緒に買ってください。
ちなみに僕のiPodには『ナミィ』サントラの浪曲ラップ3曲が常に入っております。僕が町なかで涙を浮かべている姿を目撃したら「ああ、ナミィを聴いてるんだな」と、そっとしておいてください。
- 2007/01/16(火) 02:00:28|
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祝、眷恋タエコ、Fotologue復活!
懐かしの旧作たちが見れます!
http://fotologue.jp/kenren2006年もっとも刺激を受けた強烈な個性の写真家たちはco1君とコヒヤマさんと+mocoさん、と別の場所で書きましたが、その前の2005年に関して言えば圧倒的に眷恋タエコ。赤毛のアン風に言えば僕は彼女の「崇拝者」ってとこでした。
2006年はちょこちょこzorg等で写真を出してたものの、ほぼ産休状態だった彼女。今回復活したFotologueは2005年に発表していた旧作写真の再掲載ですが、ちゃんと新作ページも準備しているようなので、こちらも楽しみにしましょう。
あ、それと、僕をweb写真の泥沼に引きずり込んだ(笑)PUU氏。彼と出会ったのはweb写真界で知らぬ者はいないであろう御大Tomさんの「SEEING PHOTOS」のBBSでした。
そのきっかけとなったTom氏の「SEEING PHOTOS」、長い間お休みされていましたが、新年になって新しいギャラリーが追加されているのを発見!
Tomさん復活? 楽しみです。
http://seeingphotos.tank.jp/
- 2007/01/15(月) 17:07:06|
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遠藤ケイ『熊を殺すと雨が降る/失われゆく山の民俗』(ちくま文庫)を読む。
杣(伐採師)やハツリ師(製材職人)、木地師(椀や杓子を作る)、炭焼き、マタギ(猟師)といった山の職人たちの技と生活を紹介。特にハツリ師の驚異的な技術には感動を通り越して呆然。
しかし今はチェーンソーでの伐採、機械での製材。燃料としての炭はとうに役目を終え、彼らの驚くべき職人芸は寂しい話だがおそらくこのまま滅んでいくしかないのだろう。
・・・・・
この本を読んでいるときに、たまたま必要があって百均の店で買い物をした。
で、買ったある商品が買った途端に壊れた。100円のものに文句を言うのも馬鹿らしいと思って、当然文句なんかは言わなかった。
しかし今百均ショップで売られている商品にも、昔はそれを開発するための研究と、それを使いやすく磨き上げるための努力というものがあっただろう。そしてその努力の成果に応じた金額を払ってみんなそれを手にする。わざわざ改めて書くのもどうかと思うくらい当たり前のことだったはずだ。
なのに百均である。
100円である、という言い訳がまず表に立つ商品である。かつてはたとえばスプーン一つ作るにしても、柄の太さ、角度、匙部の形状、丸み、深さ、いかに使いやすいものを作るかに職人達は心血を注いだに違いない。
今は1枚の金属板からいくつのスプーンを打ち抜けるか、1本でも多くのスプーンを打ち抜くことを最優先にスプーンの形を決めるんだろうな。
いきなり山の職人たちの技術と百均の商品を同じ文面上で並べることすら冒涜だが、たまたまこういう本を読んでいるときだったので特に痛切に感じたのだ。
かつては工業製品といえども、長年かけて使い勝手を研究し、改良を加え、人様に愛用していただけるようにと工夫されてきただろうに・・・と、百均ショップに並ぶ膨大な数の商品を見て暗澹たる気分になった。
技術というものへの敬意を忘れてはいけない。
古いものを懐かしむだけでは単なるノスタルジーだが、これはそういう話ではない。良いものを作る技術があるのに値段優先でその技術を使ってはモノが作れないなんて、やっぱりどうかしてるとしか言いようがないではないか。
・・・・
僕は営業写真館で働きはじめて13年になる。
働き始めた当初、スタジオで使われるカメラは4×5で、土日の撮影を控えた金曜日の晩は暗室にこもって100枚、200枚とシートフィルムをホルダーに詰める作業に追われた。
使ったことのある人は御存知だろうが、シートフィルムというのはホコリが混入しやすく、フィルム表面に乗ったホコリはそのままの形でフィルム面に露光されて残る。
このホコリの跡を、現像後1枚1枚顕微鏡を見ながら針の先で引っ掻いて傷をつけていく。
ホコリは露光を妨げるわけだから、そのままにしておくとネガ上で白く抜けている(プリントすると黒く出る)。それを針で引っ掻くことによって透過を遮り、グレーに落とすわけだ。
プリントしたあと、そのグレーになったホコリの痕跡を、染料でスポッティングして消す。プリント上に修整するので、プリントの枚数分、スポッティング作業が必要になる。
入社して1年間は、午前は暗室で証明写真のプリント、午後はずっと顕微鏡の前に座って4×5ネガのホコリを針で突く作業に追われ、夜の残業時間に面相筆で染料スポッティング、という日々が続いた。最初は慣れない顕微鏡作業で距離感をなくし、よく階段で転んだりもした。
スタジオで撮った写真はホコリを消してプリントして終わりではない。レタッチという作業がある。
今はフォトショップのスタンプツールや覆い焼き・焼き込みツールで簡単にできる作業を、アナログでやるわけだ。
ライティングのムラを修整し、肌を整え、眼の影を弱めて眼を大きく見せたり、太った女性の場合は逆に顎や喉元の影を強調して少しでも細く見えるようにしたり。
フォトショップのようにそれらの作業を一気にできるわけではなく、まず濃度を下げる作業はネガ上に紙ヤスリで尖らせた鉛筆で行い、濃度を上げる作業はプリント上に染料と筆で行う、二段階の作業が必要だった。
ネガ上に施す鉛筆修整の、その鉛筆を研ぐのに30分くらい。微妙な作業なので、完成直前で折ってしまったりして、なかなか研ぎきれない。
ネガへのレタッチは例によって顕微鏡やルーペを使っての仕事だ。これをハイシーズンは1日に100件近くやる。夜遅く、駅のホームで動けなくなったこともある。
僕がこの仕事に入ってから、まず4×5がマミヤRBのブローニーに替わり、そして最近デジタルになった。今まで鉛筆や面相筆で行ってきた作業はマックG5のペンタブレットでの作業になり、二段階に分けていたレタッチ作業が一画面で一気にできるようになった。
しかしネガ修整、プリントレタッチを経験してからフォトショップに移行した人と、初めからフォトショップでレタッチを始めた人では、申し訳ないが技量に雲泥の差が出る。
ネガ上で光を読み、影を読み、顕微鏡ごしに銀塩の粒子と対話するように鉛筆を入れてきた、そういう「技術」は伊達ではない。僕には少なくともレタッチ職人としてのそういう自負がある。
僕よりもっと古くから仕事をしている人は当然、もっと僕の知らないような「ワザ」を知っているだろうし、使ってきただろう。そういう技術的な苦労を語るときの先輩達は本当に楽しそうだ。写真が完全に手仕事であった時代の、職人としての誇りが感じられる。
・・・・・
カメラの操作やプリント作業が職人芸でなくなり、技術勝負から純然と感覚勝負になってから、写真の世界は変わった。それはそれでいいと思うし、逆に写真技術の狭い枠にとらわれていては面白い写真も撮れないだろう。技術がすべてではない。
僕も仕事の写真以外ではあまり「技術」というものを出したくない。あえて技術を殺そうとすることの方が多いくらいだ。
しかし、そんなことを言いながらも、僕が個人で表現活動として撮っている(仕事ではない)写真のバックボーンにも、ちゃんと仕事で学んだ「技術」が拭い難くあるんだなぁと実感することがある。それはいい意味の時もあり、悪い意味である場合もあるんだけれど。
人が一生懸命習得した技術を軽んじてはいけない。その人の持つ技術というものに敬意を払おう。
それは、自分の持っている技術についてもなのだ、と書きながら気がついた。
とりあえず、百均で買い物するのはやめます。
- 2007/01/14(日) 20:45:25|
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Fotologueにアップしていた旧作写真、モノクロ100枚、カラー60枚。
とりあえず自分の好きな写真は大体網羅できたかな、と。
ここいらでいったん完結とします。
たまには暇つぶしに覗いてやって下さい。
Fotologue [USED]
http://fotologue.jp/kamauchi/しばらくはなかなか出せないかもしれませんが、新しい写真はフリッカーに発表していきますので、こちらもよろしくお願いします。
Flickr / kamauchi hideki
http://fotologue.jp/kamauchi/・・・・・
自分の好きな写真、と探してみて、160枚も選べた。
幸せなことですよね。
どれか気に入って頂けましたでしょうか?
- 2007/01/10(水) 13:38:11|
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ヒナコのことや、仕事(明日は成人式・・・)のせいでほとんど会場に行けなかったけれど、ミッシィ普及委員会『撮られたら撮りかえせ!!』展、終了しました。
あのナダールでこんな展示が出来るとは(笑)
見に来てくださった方、そして三島佳子さんとMiFI(ミッシィ普及委員会)の方々、そして委員長の福永さん、どうもありがとうございました。
今回見に来れなかった方にも特別サービス。上の写真が今回の出展作です。
次は3月のナダール『ポートレート展vol.2』です。今年も参加します。
さぁて、誰を撮ろうかな。
- 2007/01/07(日) 23:41:14|
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よく考えたら人の言葉遣いをあげつらってブチブチ文句言ってる場合じゃなかった。
ナダールのグループ展、始まってるっちゅーねん!告知もせず何をしておるのか。
いやー正直ヒナコのこともあって、展示のこと忘れかけてた(笑)
年末に搬入はすませてあったんですが、それも仕事と病院の合間を縫ってやっとこさ届けた、って感じだったし。
DMも一枚も撒いてない・・・福永さんごめん。やる気のないメンバーで。
今日仕事帰りにちょっと寄ってきたけど、予想に反して(?)なかなか大人な展示でした。もっと学園祭っぽくワイワイガヤガヤなのかなと思ってた。写真的にも相当見所ありますよ。
遠藤さんのローライの写真が素晴らしかった。うう、プリントうまいっ!
僕の? 僕のはグループ展タイトル「撮られたら撮りかえせ!!」をそのまま写真にしたような、そんな写真です。一枚しか出してませんが、自分でもけっこう好きな写真です。
土日、もう在廊できませんが、お近くに行かれる方、ぜひ寄ってってください。
7日(日)までです。
http://nadar.jp/osaka/
- 2007/01/05(金) 22:08:26|
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ああ、つまんない言葉を書く人がいる。
まぁ、僕の書き散らしてる駄文もつまんないだろうから何も文句は言えないが。
僕の駄文といえども、出すからにはそれなりに推敲ということをする。
誤字脱字はないか。文章としての破綻はないか。
正しい言葉であるか。
いや、正しい言葉である必要なんかないわけで、だぴょ〜ん、とか、ぶはははは、とか書いてもいいのだ。
どこまで正しく、どこまで正しくなく書くかは書く人の裁量の上にある。
だから言葉というものの「正しさ」は、言葉使いとか、「ら抜き」が駄目だとか、そういうところにはないのである(ちなみに僕は「ら抜き」こそが正しいと思っています)。
言葉というものは一から十まで自分で発明するわけにはいかないので、人が発明した言葉たちを借用して組み合わせて使うしかないわけだが、言葉を借りるのは当たり前としても、その借りた言葉を使って伝える内容まで人から借りてはいけない。そんなのは当たり前だ。
でも一つの言葉が使い倒されて使い倒されて使い倒されて使い倒されて使い倒されていくうちに、語句の借用どころか、その言葉の周りに沈殿した「使い倒され感」みたいなものがこびりついて変な世界観を伴ってしまい、もはや語句だけを借りるわけにはいかなくなる場合がある。
たとえば「折れた翼」という言葉で考えてみる。
誰が最初にこの言葉を使ったのか知らないが、まぁ、飛ぼうとする鳥が翼が折れたために飛べない、で、じたばたしてる。焦る。でもやっぱりでもやっぱり飛べない。そういう様子を、「飛ぶ」=「何かを成し遂げようという意志を持つこと」、「翼」=「それを成し遂げるための手段」、よって、「それを達成したくてしたくてたまらんのだけど、手段を奪われてしまったし、ああ無理だぁ。悲しいなぁ」というような意味になるわけだ。ま、比喩としてフツーの言葉である。
同じようなことを表現するのなら「フリッパーを怪我したペンギン」でもいいわけだし、「チンコ切られた助平オヤジ」でもいいはずだが、翼、という言葉の語感が受けるのだろう、みんな翼を折りたがる。
昔「翼の折れたエンジェ〜ル」たらいう歌があって、これは鳥じゃなくてエンジェルであるところがちょっと変化球だったが、歌の最後に「みんな飛べないエ〜ンジェ〜ル」とあったもんだから、なんとなく「折れた翼」という言葉に「みんな折れてんだよ、傷ついてんだよ」的な甘ったれ感が付与されてしまった。翼が折れてることが事故などではなく「当たり前」に昇格したのだ。
数年前に小柳ユキが弱冠20歳だか18歳だか知らないがすんげぇ迫力の歌唱力とルックスで登場したとき、その迫力とはうらはらに、自分で作詞したという歌詞で「折れた翼」ナントカ〜と言うのを聴いて、ずっこけてしまった。今や使い古されて「折れた翼」なんて言葉は中学生の作文クラスの地位にまで堕ちている のを、可哀想に彼女は知らないのである。ま、そこが所詮20歳だったわけだが。
「走る」という言葉も嫌いだな。パソコン上で○○というソフトを走らせる、とか、そういうのは別にいいんだけど。「走る、走る〜、おれーたーち」ぽい「走る」ね。
それが持続形になって「走り続ける」とかになったら最悪ね。
でもみんな「走り続ける」の好きだね。文章家としてかなり好感を持っている中野翠でさえ使ってるのを発見したぞ。中野翠、反省しなさい。プロの文章家として、一度たりとも使ってはいけない言葉だ。
・・・・・・
で、冒頭の文章に戻る。
「ああ、つまんない言葉を書く人がいる。」
フォトログとか、別にプロの仕事じゃないんだから目くじらたてるなよ、と言われそうだが、プロの仕事じゃなくても何かを人目に晒すというのは歴とした表現行為なのだ。
使い古された言葉を使い古された古さのまま使うな。
これは何もキャプションだけの問題ではない。
写真だってそうだと思う。
- 2007/01/04(木) 21:57:25|
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慌ただしく年が明けました。
2007年ですか。おー、今年40歳だよ(6月13日で)。
今年の抱負。
銀塩モノクロプリントを再開します。今月末に引っ越しをするんですが、新しい家に暗室を作ります。バライタが滅ぶ前にやっておかないと。
ヒナコの成長記録もモノクロ手焼きで残すのだ!
上田義彦ではなくフリードランダーの影響ですから念のため。
この2年間、僕の写真生活はweb中心に回ってきました。インターネットでいろんな人に見てもらえるのは素晴らしいことです。フォトログやフリッカーのおかげで2年前には考えられなかったくらい多くの人に写真を見てもらえました。
渋谷『7』や『オーサカセブン』にあんなに多くの方が来てくれたのもwebのおかげです。
でも今年はもう少し、プリントの勉強をしたいです。
アナログでモノクロ、顔料インクジェットでカラー、というのが基本路線です。
カラープリントをアナログでする気は今のところありません。僕の基準はやっぱり「耐久性」なのです。いろいろな実験をしましたが、顔料インクジェットの耐久性は素晴らしいですよ。
数年前から顔料プリントを日の当たる場所に置き続けてみたり、ペットボトルの水に漬けっぱなしにしたりしてるんですが、まったく褪色はありません。驚異ですエプソンPM-4000px(まだ現役です!)
ヒナコ誕生で自分の写真がどう変わるのか。自分で楽しみでもあります。
ただの親バカ写真家になってしまったらごめんなさい。ま、それはないだろ(笑)
でも絶対に何らかの影響は出てきますよね。
ともあれ、新年あけましておめでとうございます。
みなさん今年もよろしくお願いいたします。
- 2007/01/01(月) 01:25:41|
- 日々
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