OK,Darling. But What is Photograph?

だから写真って何なのよ/カマウチヒデキ

上田義彦、盛口満、ほか

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『フォトグラフィカ』06号(MdN)、今回も面白いですよ。ポートレート大特集。
前号のホンマタカシも面白かったけど、今回は上田義彦特集が目玉。

「写真を見て、写真をつくる人は、写真家ではない。写真の秘密は、影響や系譜や継承ということが成り立たず、つねにゼロ点から始め直さなくてはならないということだ。それぞれは孤独で断片で、生成を繰り返す。」
(後藤繁雄「写真の力/上田義彦論」)

ポートレート展の写真をプリントしてるんですが、まさに作ってる最中にこんな特集を読んでしまうと、自分のやってることの足場が、ああ、なんだかどんどんあやふやに溶けそうで・・・。
いや、「影響や系譜や継承ということが成り立た」ないのが写真。いちいち上田義彦に打ちのめされる必要もない! ・・・と、都合よく曲解して自分を元気づけるカマウチなのである。健気だなぁ。

・・・・・

最近の読書など。

■盛口満『生き物屋図鑑』(木魂社)

生き物図鑑ならぬ、「生き物屋図鑑」。例えば蝶の魅力に取り憑かれ、蝶を愛し蝶を追い蝶に人生を捧げる人を、かの世界では「蝶屋」と呼ぶ。蝶なら理解も出来ようが、世の中には実に多種多様な「生き物屋」がいて、カマドウマ屋はカマドウマを、ゴキブリ屋はゴキブリを、冬虫夏草屋は冬虫夏草を追い、愛し、研究している。
そういった愛すべき生き物屋たちを、「骨屋」盛口満が紹介。

あからさまに文化系なカマウチだが、実は読書だけならば理科系も大好きだ。盛口満の著書は、現在手に入れられるだけのものは全部買って持っている(手に入らぬまま絶版になったものが数冊ある・・・悔しい)。はじめて『僕らが死体を拾うわけ』(どうぶつ社)を読んだときの感動は忘れがたい。どうしてあんな名著を絶版にするのか。どうぶつ社の責任者を問責したい。

この『生き物屋図鑑』、「一途」という言葉をかみしめてしまう。
中途半端に小器用で、結局何にも一途になれなかったハンパ野郎である僕に、この本に登場する生き物屋たちは眩しすぎる。

ただ、文句を一言だけ。木魂社、あの本文中のカットを描いているイラストレーターは何者だ? 盛口満のスケッチだけで作れなかったのか? あきらかにイラストが邪魔! 重版からは削除されたし。


■小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫)

どうかしたのか小谷野さん? 本文はともかく、文庫化で初めて書き足されたあとがき部分、明らかにおかしいぞ? 新潮社の編集さん、よく加筆を許したね。あとがき部分のせいで1冊まるごと台無し、って感じがするのは僕だけ? それとも僕がわかってないの?

■種村季弘『書物漫遊記』(ちくま文庫)

分野が澁澤龍彦とカブるため、どうしても日陰に回りがちな種村季弘。正直、あまり読んでこなかった。
しかし、高校時代にあれだけ熱中したくせに、この前久しぶりに澁澤龍彦を引っ張り出して読んでみると、なんだかどうにもつまらない。寺山修司は今でも読めるのにな。
その代わりと言っちゃ何だけど、種村季弘『書物漫遊記』、面白かった。澁澤龍彦はカスミ食ってそうだけど、種村季弘はちゃんと下々の食い物を食ってる人みたいだ(笑)
山之口貘の章が泣けた。貘さん、ああ、貘さん。



  1. 2007/02/27(火) 20:10:21|
  2. 読書狂
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ミノルタフレックスで撮った写真

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ミノルタフレックスで撮った写真をFlickrにアップしてます。
flickr「good-bye minoltaflex」SET
ローライコードのように横に引くシャッターに慣れぬまま、彼は壊れてしまいましたので、横ブレの写真が多いですが、それでもこのレンズの素性はわかっていただけると思います。
ロッコール恐るべし!
でももう泣かないぞー(謎)
  1. 2007/02/26(月) 02:47:10|
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さよならミノルタ・・・え、もう???

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どうしてくれんの。この騒いだ血を。
昨日あれだけ盛り上げといてさ、いきなり・・・・・ミノルタフレックス壊れちゃいましたよ!(号泣)
シャッターがもう傷んでたんですね。さすが50年前のカメラだけに。
最初の1~2本だけ撮って、それが最後の踏ん張りだったようです、セイコー・ラピッド・シャッター。
だからよ、血がね、沸々、沸々、騒ぎっぱなしなんだよ、どうしてくれる?

買ったOカメラへ返品に。あっさり返金してもらう。
その足でYカメラヘ。返金された金額で買える二眼レフを何でもいいから買おう!
海鴎4B発見。12000円。「見せて下さい!」
とりあえず今日はミノルタフレックスしか持ってなかったから、今、丸腰。海鴎でいい、とにかく僕にカメラを!
「・・・・」
あれ? この海鴎、ピントノブが空回りしてますが。おーい店員さん。
「あ、本当ですね~」
「・・・・」
おいっ! 今日は大阪中の二眼レフが壊れる日なのか???

というわけで、あれだけ盛り上がったミノルタフレックスはあっさり返品され、せっかく大騒ぎしていた血が、情けなくも鎮まりつつあります。
撮れたかもしれない未撮の傑作たち、さようなら。
誰か僕にローライフレックスくれ。

  1. 2007/02/24(土) 19:30:44|
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戦闘モード

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お披露目。ミノルタフレックス、多分3型。
1954年頃製造とものの本にあるので、僕なんかよりはるかに年上だ。
試写の結果は上々。レンズも綺麗なもんである。

二眼レフを持つと、なんだか気分が戦闘的になる。
シャッター音が静かなので相当人に近づいてもバレない。パララックスのせいで元々フレーミングが信用できないから自然と切り方もラフになる。
海鴎のときはピントダイヤルに手書きの距離指標を貼り付けていて、目測で撮ることが多かった。ミノルタフレックスのピントダイヤルにははじめから距離指標が真上から見やすい位置に刻んである。

血が騒ぐ。
行くで、ミノルタ。


  1. 2007/02/24(土) 01:22:21|
  2. カメラ
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ミノルタフレックス

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[ミノルタフレックス、ロッコール75mm F3.5、ネオパンプレスト、D-76]


物欲の春ですね。いやはや。

ちょっと前に物欲消えたー。欲しいカメラなんかないよー、なんて言ってたのはどこのどいつだ。
コシナが新しいベッサを出すようで、まぁそのカメラ(R4M,R4A)の方にはあまり食指は動きませんが、同時発売の21/4pがいいですね。
いや、何がいいって、新しい21/4pが出れば、ほれ、古いのを売りに出す人がいるでしょうが。旧型の21/4を。
その古いのを安くで欲しいという、はぁ、どこまでもみみっちい話で。

事情により海鴎4Aを手放すことになったので、その替わりの二眼レフを物色してました。
色々見て歩きましたが、二眼レフって、ピンからキリまでびっくりするくらい種類がありますね。
上はもちろんローライですが、下になると4000~5000円で売ってる、聞いたこともないメーカーのものがゴロゴロ。アルファベットのAからZまで国産二眼レフメーカーの会社名で全部揃ってた、という嘘か本当かわからないような話も聞きます。

本当はシャッターチャージのいらないミノルタオートコードあたりが欲しかったんですが、お金ないし、ミノルタフレックスで我慢しました。我慢しました、なんてミノルタフレックスに失礼か。あえて、積極的にミノルタフレックスにしました。お金の関係で(笑)
二眼なのに80cmまで寄れるのがいいです。今日1本試写して早速現像しましたが、うおおおお、これはこれは。ちょっといいレンズっぽいですよ! 1万7千円は安かったのではっ!
(↑ 上の写真。撮りたてほやほや、現像したてほやほや。ドライヤーで強制乾燥して早速スキャンしました。)
ところで僕はミノルタのカメラを所有するのは初めてです。ミノルタデビューがミノルタフレックス。いいねぇ(笑)

ところでブロニカの修理ですが3万円かかってしまいます。
しかし、今回お願いしたブロニカ修理のイストテクニカルサービスという会社、かの吉野善三郎(ブロニカ作った人)の息子さん(一時期ブロニカの社長も務めた)がやってるんですよ。修理してくださる井沢さんという職人さんも元ブロニカの人。たった3万円であのブロニカS2がオーバーホールまでされて新同品になるってんですから素晴らしい話です。
銀塩が滅ぶその日まで、ブロニカ君、そして新しい相棒ミノルタフレックス君、一緒に頑張ろうではないか。

夜、大阪の仕事が終わってから、ポートレート展のDMを置いてくださるというので昭和町のGallery Maggotへ。http://gallery.maggot-p.com/
オーナー大木さん、お会いするのは初めてでした。ギャラリー内の本棚に目が釘付け! すごい。まじ好きっす、この本棚! うちとも相当カブってる! 3時間くらい、端から端まで探検したかったのですが、そのあと日向子の病院に行かなくてはならなかったので30分くらいでおいとましました。でも絶対今度ゆっくり見に行こっと。すごく楽しいギャラリーですよ!
  1. 2007/02/23(金) 01:45:14|
  2. カメラ
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ナダール・ポートレート展

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途中で相棒ブロニカがクラッシュするというアクシデントに見舞われたものの、なんとか無事に撮影を終え、現像を終え、セレクトを終え、ナダール「ポートレート展」下準備が整いました。あとはプリントして裏打ちして装幀考えればいいだけです。撮影さえ終われば気は楽です。モデルをしてくださったAさんBさんMさんKさんTさんOさんどうもありがとうございました。本人が気に入るかどうかはさておき、撮影者的にはいいものが撮れたと思っております。

「ポートレート展」
大阪ナダールにて3月6日(火)ー11日(日)/11:00-19:00
金子 文雄、カマウチ ヒデキ、西村 康、藤野 文子、
松井 圭介、まつい ひろまさ、千葉 奈央巳
http://nadar.jp/osaka/schedule/070306.html

DMご希望の方、メールください。
kamaneko[at]kpb.biglobe.ne.jp
([at]を@に書き換えてコピペしてください)
  1. 2007/02/20(火) 19:30:13|
  2. 写真
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レッドホットチリペッパー

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種村季弘『書物漫遊記』(ちくま文庫)を読んでいたら、こんな話が出てきた。
種村の友人のインド文学者松山俊太郎という人が、普段から荒行のように唐辛子を摂取する人で、東京で一番辛いというインドカレーの店で「こんな甘ったるいのが食えるか!」と文句を言った。するとコックの目が怪しく光り、「ようがす」と奥へ消えた。そして出てきた新しいカレーを松山はきれいに食べ終わってから「ありがとう、これがカレーです」と言い残して店を出たのだが、あとで聞いてみると松山は「いや、実はさすがにあのときは心臓が止まるかと思ったよ。それよりあれから一週間位、耳鳴りがガンガンして止まらなくなっちゃったのには吃驚したね」

こういった「辛けりゃカレー」という貧しい発想の人は嫌いである。唐辛子を大量に摂取できることをさも英雄的行為のように思っている人間がいるが、そんなやつは一週間耳鳴りでも何でもして苦しめばいいのだ。
僕は昔梅田の某インド料理屋で働いていたのだけれど、そのときもこういう客がいた。
「この店で一番辛いカレーをくれ」
そのときホットチキンという相当辛いカレーがメニューにあったのでそれを出すと、「全然辛くないやないか。もっと辛いのはないのか」と文句をいう。「明日も来るから考えておけ」と。
コックのビシャンシンさんが困ったような顔で「ああいう客、嫌い」というので、
「明日は今日の3倍くらいレッドペパー入れてやったら?」
で、ビシャンシンさんは次の日、本当に3倍レッドペパーを入れて出した。しかも薬研でゴリゴリ挽きたてのやつを。ところが
「まだまだ辛くない。こんなもんじゃ満足でけんな」
とそのオッサンはまだ文句をいうのだ。
僕もビシャンシンさんも腹が立ってきた。そんなに唐辛子が好きなら鷹の爪でも何でも丸まま囓るなり、タバスコ一気飲みするなりすればいいのである。ここはインド料理を出す店であって、唐辛子ペーストを食べさせる店ではない。インド料理は、そりゃ辛い料理もあるけれども、実際全然辛くないカリーも多いし、唐辛子の辛さばかりじゃなく、いろんなスパイスの香りや味を楽しんでもらいたいと思ってコックさんも腕を奮うわけである。それをあの唐辛子バカは!

翌日、僕は素晴らしいアイデアを思いついた。
「ビシャンシンさん、あの客のカリー、今日の味付けは僕にやらせて」
「カマちゃん、どうするの?」
「うひひ」
その日も鼻息荒くその客はやってきた。
「今日は期待してるで」
薬研で挽きたてのレッドペパーを昨日と同じく3倍量、ホットチキンカリーにブチ込む。そして、さらに、普通の3倍量の「塩」をそこへ放り込んでやった。
「・・・・!」
客は呻きながら、その「塩3倍」ホットチキンカリーを食っている。昨日までと違って顔には脂汗が浮き、目を白黒させている。唐辛子の辛さは我慢できても、塩の辛さは我慢できない。
しかし客には客の意地もあるようで、まぁ天晴れなことに彼はなんとかその皿を平らげ、目を充血させながらレジでこう言ったものである。
「き、きょうのはやっと手応えあったな。さ、さすがや・・・・」
僕とビシャンシンさんはがっちりと握手をした。
その日を最後にその客は二度と店に姿を現さなかった。

・・・・・・

なーんて話を思い出したら、ああ、無性にインド料理屋のカリーが食べたくなってきた。
パラクパニール(ホウレンソウとカテージチーズのカリー)とか、ダル・マトン(緑豆とマトン肉のカリー)とか。パコラ(インドの味付け天ぷら)もいいなぁ。

  1. 2007/02/19(月) 03:10:14|
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ブロニカ壊れた!

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ブロニカ壊れたー!
うわぁ・・・・・どうしよう(泣)

今日ポートレート展に出すためにTさんとOさんという二人の女性を撮らせてもらったんだけど、一人目のTさんを職場近くの公園に呼び出して、さて撮ろうとしたら
「ガシ・・・」
いつもの破壊的なブロニカのシャッター音が、なんだか中途半端。
ん? あれ、巻き上がらない。ファインダー、真っ暗。
どういうこと?

格闘すること数分、どうやらミラーが下降したきり戻らなくなっているようだ。ブロニカS2のミラーは普通の一眼レフと違って上に上がるのではなくボディ下部に滑り落ちる仕掛けになっていて、ファインダー側に遮光シャッターが閉じるという凝った作りになっている。その凝った仕掛けがクラッシュしたらしい。

今まで2年間、バリバリ働いてきたブロニカが、そんな突然に・・・。
いや、今は悲しんでいる場合ではない。目の前のTさんをいつまでも待たせるわけにはいかん。
「ちょっと待っててー」
大急ぎで職場に走ってロッカーからペンタックス67を引っ張り出してきた。しかしこのペンタも何年も使ってないぞ。写るかな。

Tさんの撮影はペンタ67で無事終えて、今度は某スタジオでOさんを撮る。
なんかペンタが不安だったので、スタジオの隅に転がっていたマミヤRB67も使うことにする。ペンタで1本、保険のつもりでマミヤで1本、最後にもう一度ペンタで1本。計3本。

家に帰って、Tさんの3本、Oさんの3本の計6本のうち、2本づつ4本を現像した。
「・・・・・!」
がーん。
保険のつもりのマミヤで撮ったOさんの1本が、薄~い。ストロボがシンクロしてない。発火はしてたぞ。接点がおかしかったのか? そういえばこのマミヤも長年使った形跡がないカメラだった・・・・

Oさん、すまん。たぶんペンタで撮った方で大丈夫なので。
Oさんとの別れ際、「使い慣れてないカメラ使ったから、もしメカトラブルで失敗してたらごめんね」なんて言ってたのだが、本当になるなよー。

・・・・・

とにかくブロニカ直さなきゃ。あれが使えないと困るよ。
いくらかかるんだろう。嗚呼。
  1. 2007/02/17(土) 00:46:32|
  2. カメラ
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旅しないカメラ

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写真を撮る人というとどういうイメージなんだろうか。
仕事で学生たちと話したりしていると、「プロカメラマン」とは彼らの一般的イメージとして「風景を撮る人」であり、太陽の加減や風を読んで何時間もシャッターチャンスを待っていたり・・・・そんなことしねーよ俺は(笑)

たとえば僕らが「陶芸家」に抱いてる貧困なイメージ(窯から出てきた作品を一目見て「駄目だ!」とか言って割っちゃう海原雄山みたいな陶芸家)みたいなもので、プロの写真家たるものススキの穂の靡き具合と光線状態を待って数時間、という撮影をしなければならないらしい。卒業アルバムの撮影に学校へやってくる「カメラマン」は、みんな裏では夕陽とススキを撮っていると学生たちは信じているのである。

また「カメラマンはいいなぁ。いろんなところ行けるでしょう?」
「いや別に。修学旅行に随行してディズニーランドとか、スキー合宿の志賀高原とか。別にクソ面白くもないけど」
「えー、しょっちゅう海外とか行くんと違うの?」
僕はマグナムの会員ではないよ、残念ながら。

NYでファッションを撮ってる人、イラクやエルサレムで銃撃をかいくぐっている人、日本で紅葉の山を撮ってる人、芸能人を撮ってる人。彼らにかかると世界で「カメラマン」は数人しかいないことになる。高校生、想像力なさすぎ。
「ねぇねぇ、陣内に会ったことある?」
ないっつーの!

なんせカメラマンといえば、旅から旅、あちこち移動する人、というイメージが強いようである。
でも僕はほとんど旅をしない人だ。
沖縄が好きでもう10年以上、ほぼ毎年通っているが、これは「旅」が好きなのではなくて「那覇」という町が好きなのであって、あまり「知~らない町を歩い~てみ~た~い~」的な欲求は、あまりない。一カ所気に入ったらずっとそこばかりに通ってしまうタイプ。だから僕の沖縄行きは「旅」ではなく、単なる「訪問」。せっかく沖縄に行っても離島とかほとんど行かずに那覇の街中だけだし。

「風景じゃなきゃ一体何撮るのさ」
だからそういう質問が一番困るんだって(笑)
いやー、空き缶とか、ゴミとか。アスファルトとか、猫とか。魚の死骸とか。
・・・・・・
そっちから聞いといて、そんな顔すんなー!



  1. 2007/02/16(金) 00:28:48|
  2. 写真
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メインサイト60000名様ご来場感謝

メインサイト「kamauchi photograph」がめでたく60000アクセス到達です。
1年9ヶ月かかってますので、一日平均93名様ご案内。ありがたいことです。
これからもこのブログともども、メインサイトの方もよろしくおねがいいたします・・・って、最近ほとんど更新してないんですけどね(笑)

自分でも気に入っている「写真集を買いに」のコーナーなど、さらに充実させて行きたいと思ってますので。
  1. 2007/02/10(土) 23:43:49|
  2. 日々
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文章について

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最近、ある新書を買った。似たようなテーマの本を続けて読んでいたので、ついでに読んじゃえ、みたいな軽さでタイトルだけを見てあまり深く考えずに買ったのだが、何十ページか読むうちに奇妙な気分になってきた。なんか、前に見たような図版が載ってる。この料理のことは前に別の本でも読んだことがある。しかし文章下手くそだな、この著者。この下手くそさ加減も前に知ってるぞ。・・・ん?

はい、もうおわかりですね。前に読んだ本をもう一度買ってしまったんですな。しかもここ何ヶ月か以内に読んだはずの本だった。
本棚を探したら、ほら、やっぱり。もう1冊出てきた。あほー。カマウチのあほー。

しかし、だ。半年以内に読んでるはずの本を、何十ページか読むまで「あ、これ前に読んだ」と気がつかないというのは、ちょっと僕の健忘症も末期症状ではないのか。まぁ似たようなジャンルの本を続けて読んでいれば、タイトルだけでは前に読んだかどうかわからない、というのはよくある。似たようなジャンルの本には似たようなタイトルがつくからである。
最近では冨原真弓の『ムーミンの二つの顔』と『ムーミンを読む』という二冊が書店に並んでいて、どちらかを前に読んだのだが、さてどっちだったか、と悩んだことがある。著者まで一緒なので余計ややこしかったのだけれど。
しかし今回はタイトルだけでなく、30ページ、ほぼ1章分読み終わるまで気がつかなかったのだから、これは相当まずいかもしれん。

しかし、前に読んだかも、と思い出した決め手が「なんかこの下手くそな文章、前にも・・・」というのが面白い。内容は覚えていなくても文章の下手くそさは忘れないらしい。

・・・・・・・

今日は「上手い文章って何だろう」という話です。

そもそも文章の上手い下手って何だろう。
高校の頃よく読んでいた梅原猛。あの人の文章センスのなさというのは今思い出しても笑えるほどだ。
『隠された十字架』『水底の歌』『神々の流竄』等の古代史の謎を追った本は、その内容には感激して二読三読したものだったが、読み直すたびに「こんなに面白いのに、なんでこんなに文章が下手なんだ」というひっかかりは抜けなかった。
とはいえ高校生の頃の感じ方などあまりアテになるものでもないので、今読めば実は意外な名文家だった、みたいなこともあるかもしれない。
そう思って古本屋にあった『仏教の思想』(上)(下)二冊を買ってみたが、大人になった今の目で読み直しても、やっぱり下手くそは下手くそだった。
とにかく「・・・である。・・・である。・・・である。」と単調な語尾を偏執狂的に連ねていくので、あえて何かそういうビートパンク的な効果を狙っているのかなと疑ってみるのだが、べつにそういう芸があるようでもなく、まぁ単に気をつかってないだけなのだろう。

梅原猛を「下手くそ」と感じていた高校生の僕が、では誰を上手いと思っていたのかというと、おそらく誰もが通る道(というほどでもないか?)司馬遼太郎である。こういうことを白状するのはなぜか妙に気恥ずかしいのだけれど、『新選組血風録』だの『竜馬がゆく』だの『風神の門』だの、あのあたりかなりわくわくしながら読み込んだクチだ。
そうとう入れ込んで、代表作の半分くらいは読んだと思うのだが、ある日を境にぴたっと熱が冷めた。文章が何やら端正すぎて面白くなく感じはじめ、より土臭い海音寺潮五郎なんかに興味が移って行ったのだった。

で、長らく読まないので、司馬遼太郎の文体など忘れていたのだが、これまた古本屋で『街道をゆく』の沖縄編というのがあったので買ってみた。
上手い・・・・のは、たしかに上手い。しかし当時は感じなかったけれど、相当に癖のある文章である。今読めば「端正」な感じよりも、この人独特のねばりとか息づかいのようなものも入っている、なかなかに体臭まで感じさせるような個性的な文体だ。頭の隅に残っていた印象とは違って、意外と今でも「好き」な部類だった。

・・・・・・

こんな他人の文章をとやかく言うからにはカマウチよ、お前相当な名文家なのかと問われれば、いやまぁ、まさに御覧の通りと言うしかないわけで。
評価は人の好き好きである。というか、僕は文章でお金をもらってる人じゃないので、と逃げておく(卑怯者)。

お金をもらっている人ではないが、こんなブログを書いているくらいだから元々書くのは好きで、高校時代から学校図書館の館報に文章を投稿したりしていた。今手元にないのでどういう内容だったか正確には覚えていないけれど、小林秀雄の悪口とか書いていた気がする(笑)。
で、この館報を読んだ国語のホンダ先生という女の先生が「内容はともかく」とした上で、「あなたの文章はセンテンスの妙な長さとか、うねりみたいなものがあってとっても面白い」と文章を誉めてくれた。「ちょっと論理的に破綻してるところがあったけどね」という釘もちゃんと刺しての上で。

僕は学校の教師というのは基本的に嫌いで「学生からそのまま教師になって一度も世間に出ずに一生学校の中のことしか知らないやつに何の教育が出来るんだよドアホ」とか思っている人だけれど、たまーにこういういいこと言う先生もいたりするので一概に悪口を言うのはやめようと思う。
いやなにも自分が誉められたからいい気分だった、という話ではない。「内容はともかく」なんていいながら、人の文章のセンテンスの長さだとかうねりとか、そういう部分を誉めることができるなんて、ちゃんとしたセンスのある人が教師の中にいるのだ、ということが嬉しかったのだ(それだけ教師なんかには期待していなかった、ということでもあるんだけど)。
自分で自覚していなかっただけに、センテンスが長いだとか、文章にうねりがあるだとか、そういうことを指摘されて意識してみると、なるほど僕が常々好きだと思っていた人の文章は似たような傾向にあるものが多かった。

そういう文章を好もしく思うから自分が感化されたのか、そういうリズムが自分の中にあるからそういう文章の人を好きになるのか、ニワトリかタマゴかでよくわからないのだけれど、理由はどうあれそういうリズムとかうねりを共有する人を「上手い文章」と感じるのであって、僕よりも短い拍動で生きている人には梅原猛の文章が名文に感じられるのかもしれない(根拠はない)。

・・・・・・

今の時点で、文体という意味で一番影響を受けた人は誰だろうか、と考えるに、やはり今はなきナンシー関だろうかと思う。

フザけた文章であると馬鹿にしてはいけない。彼女の文章は掛け値なしの一流である。ノリ突っ込みの面白さだけが彼女の偉大さなのではない。
彼女が亡くなったときにTVのコメンテーターはただありきたりに「消しゴム版画と辛口芸能コラムで有名な・・・」という紹介ですませてしまっていたが、山藤章二だけは「日本は偉大な文明批評家を失ったんです」と彼女の価値をちゃんとわかっていた。
僕も彼女が死んだとき、本当に一週間はまるまる落ち込んだ。よりによってなんでナンシー関が!
杉浦日向子のときもそうだったが、「ほかに死んでもいいやついくらでもいるだろうが!」と思わず暴言を吐きまくるほどにショックだった。今でも彼女の訃報を思い出すだけで涙が滲む。

中野翠が「あの人のスタンスの軸のぶれなさ加減は驚嘆に値する」と評していたが、とにかく徹底的に自分を含めた人の営為を笑い飛ばせるあの眼力は凄まじいものがあった。
高踏的に出たかと思えば瞬時に身を翻して自分を落とし、朗々と対象の馬鹿さ加減を嘲った挙げ句に即座に乗せた俎板自体を意味なしと叩き割って見せる、変幻自在のヒット&アウェイ。こんな芸当はよほどブレない軸を持った人でないと、普通は軽薄な下衆文に陥ってしまう。

彼女の文章のテクニック解析をしても仕方がないし、解析する力も僕にはないんだけれど、彼女の「文明批評の域にまで達していた」(山藤章二)人物評の文章の、まさに文体だけをとりあげるならば、わりと真似やすい文体でもあるし、実際相当に真似されている(勢古浩爾 なんか相当影響うけてないか?)。正直僕だって粗悪なエピゴーネンの一人である。

でも結局その人の文章が上手いか下手か、という話になると、要するにその文章の息づかいだとか緩急だとか、そういうものが自分の精神や思考の息づかいの緩急に合っているかどうか、という、もしかしたらそれだけなのかもしれないな、と思えてきた。まぁ、それだけ、というのも乱暴な議論で、いろんな要因があるのはわかってるんだけれども。

変幻自在な眼力とブレない軸を僕も持てれば、僕もナンシー関のような名文家になれるのだろうか。
ホンダ先生に「内容はともかく」と言われたことが今頃疼いてくるカマウチなのだが(笑)。

・・・・・・

最近文章が長い。
みなさん、無理して最後まで読まなくていいですからね。どうせ大したこと書いてませんから。




  1. 2007/02/09(金) 14:03:43|
  2. 読書狂
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モデルしません?

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重い話題が続いたので、ちょっと趣向を変えましょう。

今年もナダール・ポートレート展に出品します。
http://nadar.jp/osaka/schedule/070306.html

で、被写体を募集します。カマウチに撮られてみたい人、いませんか?
・老若男女問いません。
・拘束時間は30分くらい(僕は撮るのは速いです 笑)
・お礼は特にはできませんが、プリントは差し上げます。
・女性はかわいく美しく、男性はかっこよく・・・・撮るとは限りません。僕が「写真的に」かっこいいと思ったものをセレクトします。
・女性に「脱げ」とかいいません(ヌードとか興味ないも~んw)

募集若干名。どうでしょう?
ご希望の方はメールください。
kamaneko[at]kpb.biglobe.ne.jp [at]を@に替えてコピペしてください。
  1. 2007/02/03(土) 19:00:00|
  2. 展示
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生命を食うということ

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毛皮のコートとか着た人が嫌いだ。
僕も革靴は履くし、カメラのストラップも革が好きだが、それらは牛革であって、牛革は食肉としての牛の革だから、わざわざ革を取るために牛を殺すわけではない、という屁理屈が僕の中にはあった。
ウサギとか、キツネとか、ミンクとか、毛皮をとるために動物を殺すのは反対!
ブリジッド・バルドー、偉い! 神田うの、死ね!
食いもしない動物を殺してはいけない。
・・・・・と。

しかし僕の持ってる三線、あれの胴皮はニシキヘビである。ニシキヘビの肉は食うのか? たぶん食わんだろうなぁ。毛皮のコートは許せなくて三線の胴はいいのか。う~ん。人工革の楽器に替えたくなってきた・・・。

食うためにしか動物を殺してはならない、ということを徹底していけば蚊も殺せないし、どこからがokでどこからがダメなのかという線引きは難しい。犬猫は普通は感情的にNOだが、蟻を1匹踏みつぶしてしまって一晩眠れなかった人は、あまりいないだろう。

結局「毛皮のコートとか着た人は嫌い」という1行目の文章からすでに説得力を持たなくなってくる。ブリジッド・バルドーより神田うのが低級であるという理由も怪しくなってきた。
(あ、注釈しますと、ブリジッド・バルドーは最近過激な動物愛護運動の旗手として活躍中で、神田うのは自分のブランドで毛皮のコートをじゃんじゃん売り出してブリジッド・バルドーに怒られたのだった)

食いもしない動物を殺してはいけない、と書いた。
当然、食うために動物は殺してもいい、ということだ。というか、人間は他の命をいただかなくては生きられないので、動物にせよ植物にせよ、生きるためには「殺してもいい」じゃなくて「殺さなくてはならない」。
こんな当たり前のことをわざわざ書いて納得しなければならないほど、我々は「食べるために他の生き物の命を絶つ」という行為を実際にその手で行っていない。

パック詰めされた肉しか見たことがないから、牛肉だ、豚肉だといわれても、生き物としての牛・豚とちゃんと観念として結びつかないのだ。もちろん牛という生き物は知っている。しかし日々食っている肉と、牧草を食んで鳴き声をあげている牛とがちゃんと結びつかないから、彼らを殺して食っているのだという実感がわきにくい。

鶏に関しては僕は子供の頃に一度だけツブしたことがある。
叔父の家が養鶏場をやっていて、玉子の方で食肉用の鶏ではないんだけど、やっぱり産みの悪くなってきた鶏は処分されて夕ご飯のおかずになったりするのだ。
で、いい機会だからヒデキ、やってみろ、と。

小学生の頃の僕はといえば蚊以外は虫も殺せない心優しい少年だったのが、なぜかそのときは好奇心が勝ったのか、やってみようという気になった。まぁ僕がやらなくても叔父さんがやってしまうわけだし、で、結局今晩これを食うわけだし、と自分に言い聞かせて。

しかし、最初がどうしてもできない。ナタで鶏の首を落とすのに、やれと言われて鶏の体を押さえてもらっても、命を奪う、その最初のひと太刀がどうしてもできない。
しゃーないなぁ、といいながら叔父さんはいとも簡単にトン、と首を落としてくれた(首を切っても鶏は動くというのは本当で、ばたばたと手羽を振ってしばらく暴れていたのが不思議だった)。
現金なもので、目の前の鶏が「生き物」ではなく「肉塊」になった途端に、心優しき(?)少年も平気になってしまう。
関節を外し、羽を毟り、内臓を出し、肉を切り分け、叔父さんの手本通りに解体し、その日の晩にみんなで焼いて食べた。
冷蔵庫に入っているパックされた肉ではない、体温の残る食肉というものに触ったのはこの日がはじめてだった。そして残念ながら、それ以降一度もない。

・・・・・

僕らは日々加工した食肉を、スーパーで買うなりヤキトリ屋で食うなりしている。その「食肉」は当然それはどこかで誰かが屠畜し、解体しているわけだ。
肉を食う人間がいれば、当然それを生産する職業があり、そこで働く職人たちがいる。

しかし日本では(日本だけじゃないけど)昔から屠畜にかかわる人たちが差別されてきたという恥ずべき歴史がある。差別しておいて自分は肉を食うのかよ、って話なのだ。
煙草がこれだけ悪者になっても、JT社員は差別なんか受けないのに、一部徹底的な菜食主義者は除いて誰でも食ってるはずの食肉を生産する人が差別されるってどういうことなんだろう(JT社員を差別しろ、と言ってるんじゃないよ、念のため)。

で、最近出版された内澤旬子の『世界屠畜紀行』(解放出版社)。
これは快著です。凄い!
韓国、バリ島、エジプト、イラン、チェコ、モンゴル、インド、アメリカ、東京、沖縄。豚、牛、羊、ヤギ、さらに韓国では犬肉まで。世界を旅して見て回った、動物を屠って肉にする現場と、その職人たちの渾身ルポ。
今までも鎌田慧『ドキュメント屠場』(岩波新書)をはじめとして、屠畜関係の本は見つければ必ず買うくらい読んできた。が、日本だけでなく世界の屠畜事情を歩いて調べた本というのはさすがに初めてだろう。内澤旬子、凄い! 

肉を食う人ならばすべてこの世界を知るべきだ。まぁ、本を読んだだけの僕が偉そうに言うのも何なのだが。

動物を殺すのは可哀想、という、今まで当たり前と思ってきた考え方自体を揺すぶられてしまう。
可哀想と思いながら人は肉は平気で食うわけで、結果として「生き物」を「肉」に変換する人のところへこの捻れが押しやられていく。屠畜場で働く人々への差別という形で。
しかし、世界のすべての地域で屠畜職人が差別されてきたのかというとそうではないらしく、やはり仏教圏でそれが際だつようなのだ。仏教の殺生戒に関係しているのだろう。

僕は特に最近父親になったからというのもあるが、それ以前からも、生命というものの不思議さについてずっと考えてきた。しかし、どこから来てどこへ行くのか、という風に考えているとき、それは「生命」と一般化した言葉を使ってはいても、結局自分の生命について考えているだけだった。
どこから来てどこへ行く、というような話以前に、今この時点で生きている僕という生命を維持するために、動物や植物も含む「他の生命」を食わねばならないという根本のことにはあまり考えを至らせることがなかった。人間だけでなく、他の動物すべて「他の生命」を食わねば自分の命をつなげない。これは当たり前のことだ。

その当たり前のことと、「動物を殺すなんて可哀想」という感情と、一体どこで折り合いをつけたらいいのだろう? 
結局は「食うために殺すのは当たり前、しかし食わないのに殺すのは駄目」という、このページの最初の考え方に戻ってしまい、またその境目について考えて曖昧さにわけがわからなくなるという堂々巡りに陥ってしまう。難しい。

・・・・・・

この内澤旬子さんの凄いところは、自分も犬を飼ってかわいがってたのに、「それとこれとは別!」と韓国で犬を処理する現場を取材し、うまいうまいと犬鍋が食えてしまうところだ。
僕は犬を食用とする文化圏にいないので「いつも食ってる肉だから」という精神的言い訳的な後ろ盾がない。韓国で、目の前に出されればきっと僕も食うことはできると思う。でも犬の屠畜場の取材ができるかどうかは・・・すみません内澤さん、僕はまだまだ青っちょろいです。
牛、豚の屠畜にはいつか立ち会ってみたいと思っているのだけれど。

  1. 2007/02/02(金) 20:07:08|
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