OK,Darling. But What is Photograph?

だから写真って何なのよ/カマウチヒデキ

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覚え書き

110223mm.jpg

「自分」というものに重きを置かない。単なるちっぽけな枠だと考える。
「自分」には案外に独自性なんかない。写真(に限らずアート的なもの)は自分の外に大きく広がっていて、自分という小さい枠から出ないとそれが見えない。
チンケでつまらない「自分」を壊してちょっとでも拡張するために、写真を撮るんだと思う。

自分で何らか響く写真が撮れたとしても、それは「自分」の手柄ではない。自分の内側にあるものではそうそう感動なんてできない。外からやってきて自分を揺り動かしてくれる何か。それを見逃さずキャッチするのが写真の仕事。

写真を撮る者のつとめは、常に自分をオープンにして、外からやってくるものごとに感応する準備を怠らないこと。
大事なものは外からやってくる。そして自分というチンケな枠は、大きな「外」に、自分では知り得ない方法でどうやら繋がっている。



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  1. 2011/02/23(水) 23:28:13|
  2. 写真
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2月19日

110219GRD.jpg

バイテンに夢中になって、疲れすぎて、反動でデジタルな画像が心地よい最近。GRD2。








  1. 2011/02/19(土) 01:48:56|
  2. 写真
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読書

110217CN.jpg

読書。■川上未映子『夏の入り口、模様の出口』(新潮社)やっと読んだ。週刊誌の連載なので、まぁ、仕方ないのだろうけれども、川上未映子も丸くなっちゃったよなぁ(でも好きだけど)。しかし『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)の頃の蹂躙驀進感が懐かしい。文体だけの問題ではなく(でも好きだけど)。最新刊の『発光地帯』(中央公論新社)はまだ読んでません。サイン本が当たる、当選発表は発送をもって、なんてのに応募したので(どんだけ好きやねん)、まだ送られてこないってことは外れてるんだけど、それを待ってる間に買いそびれているという。来月買います(貧)。■佐川光晴『牛を屠る』(解放出版社)。面白かった。一晩で読んだ。差別問題とか、そういう視点はほとんどなく、ただ「生活のために」屠殺場(著者は屠場でも屠畜場でもなく「屠殺場」であると強調する)に就職し働いた11年のことを、主に「技術」面を軸に据えて淡々と語る。だが、筆致を抑えているだけに、初めて(オンラインではない)病畜小屋で手斧で牛を屠殺し、放血させるため首にナイフを刺し入れたときに、肩まで浴びた血が熱かった、という場面の迫力が際だつ。映画(『いのちの食べ方』)で見た、濛々と湯気の上がる牛の解体現場を思い出した。


  1. 2011/02/17(木) 07:12:23|
  2. 読書狂
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こけた話/ズレる話

110212yamura.jpg

前々回の「借り物ですが」の記事を書いた翌日だから、1月31日の話。
わたくし、借り物のバイテンが入ったリュックを体の前にかけ、背中にはいつものロープロのリュックを背負い、まるでロボコンのように体をゆさゆさしながら、朝の阪急塚口駅で、閉まりそうな電車のドアめがけ走る途中で



こけました。



・・・・はい。バイテン抱えたまま。
しかしさすが借り物のカメラだけに、そのまま前にこけたらカメラにダメージが! と咄嗟に体を右へひねり、地面に左太ももと左ヒジから着地し、激痛に痺れながら体を起こし、左の太ももの痛みでまたヘナヘナと座り込んだところを、目の前で電車のドアはゆっくりと閉じて行き、プシュ~、と馬鹿にしたような音を立てて電車は走り出しました。
先頭車両の横でコケているので、明らかに運転席から僕は見えているはず。それを、無情にも無視して発車する車輌。思わず叫びましたよ。
「行くんかいっ!」

その後数日左太ももの激痛は治まらず、べったり全面に湿布を貼りまくって、ようやく今は治っているのですが、同時に激突した左肘は12日たった今でもまだ痛い。骨にヒビとか入ってたりして? 腫れてないので、まぁそれはないとは思うんですが。

しかし、あそこまで華麗にこけたのは何年ぶりだろうか。
あれ以来、自分の身体感覚に、なんか自信が持てないのです。階段を1段飛ばしで降りたり、よくするじゃないですか。あれってよく考えたら凄い話で、歩幅の間隔だけで正確に階段を飛んで降りる、そういう空間を把握する術を、人間は知らず会得している。しかしああいう風に派手にこけて怪我までしてしまうと、自分の体に備わっているはずのそういう空間把握能力が、一気に信頼できないものに堕してしまう。
止まったエスカレーターを自力で上り下りするときの、上り始め、上り終わりの、あの歩幅が狂って身体感覚が裏切られる、あの感じ、あれに常に怯えているような、そういうそこはかとない不安感が、あれ以来抜けないのです。

・・・・

しかし、しかしである。
10日もそういう違和感を抱えていると、そういう自分の体が完全に自分のものではないような、大袈裟に言えば幽体離脱的な(そこまでではない、なんかズレている、という程度なんだけど)感覚を、恐れるだけではなく、なんか楽しみつつある自分も発見したりするわけで、怖いくせに、恐る恐る階段を1段飛ばしで降りてみたりする。自分の体と世界との信頼関係を再構築している感じ、といえば聞こえはよいが、正直もっと幼稚な感覚で、「こけるかもしれない」あやふやさを楽しんでいる、とでもいうべきか。

さてさて、この12日間、体の痛みを抱えながらも、職場を中心に、いろんな人を8×10カメラで撮らせてもらった。
被写体に「前後には絶対に動かないように」とお願いし、ピントを合わせてからフィルムホルダーをセットし、実際にシャッターを切るまで、中判以下のカメラとは徹底的に手続きの異なるカメラだから、撮る側にも撮られる側にも、相当な圧迫が加わる(しかも今回は300mmf5.6のレンズを絞り開放で撮っている。撮影距離にもよるが被写界深度は1センチもない極薄である)。その圧迫が、写真に不思議なひと味を加える。
ピントを合わせる、というのは自分の視神経で目の前のものに焦点を合わせることの模倣のようなものであるから、中判カメラ以下のように、焦点が合えば(見る、ということの擬似行為であるところの)シャッターボタンを押す、という流れが自然であるのに、そこからひと儀式待っている、という時間的な隙間、それが、「何かのズレ」を生むのだろう。なんだかその人を撮っているのだけれど、ちょっとその人とズレた何か、を撮っているような気がしてくるのだった。
写真術が生まれたばかりの頃は、これに加えて感材の感度の低さにる、長秒にわたる拘束というものも加わったから、撮られた写真も、今よりもっと「ズレ」感があったのではないかと想像する。

人物写真は面白いが、その写真がその人の、何か核心に触れるような何か、を写し出せるのだと思っているほど僕も無邪気ではない。
むしろ、その人がかぶっている、なんらかのズレ感、のようなものを写したい。そう思って人物を撮っているのです。



  1. 2011/02/12(土) 00:44:13|
  2. 写真
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8×10フィルムの現像

11004scale.jpg

大判カメラは仕事では4×5を使っていたし、2年前のギャラリー・マゴットのグループ展では八切暗箱を使って撮影をしたことがあります。
http://fotologue.jp/kamauchi3#/8008394/8008551

しかし、8×10は撮影は初めて。
あ、正確には一度だけ、中村浩之さんと二人展をしたときに、8×10で中村さんが僕を撮ってくれたとき(→これ)に、中村さんを撮り返した(ていうか、シャッターを切らせてもらった、って感じ)ことが一度だけあります。

今回は、まだ秘密の、来年3月(遠い!)のとある企画のために、ギャラリー・ライムライトの兒嶌さんにタチハラの8×10をお借りし、手始めに何名かポートレートを撮らせてもらっています。300mmF5.6を開放付近で使い、薄氷を踏む思いでピント合わせをする緊張感と快感はたまらんものがありますね。

8×10、撮影も初めてならフィルムの現像も初めてです。
以前に八切暗箱で撮ったときは8×10のフィルムを暗室で切って使い、バットに現像液を張って二枚同時に繰り現像(トランプのように液の中でシャッフルしながら現像する)しました。
今回も最初そうしていたのですが、2人目のときにフィルム同士の接触で傷をつけてしまい、やはり複数枚は無理があるか、と1枚ずつ投入してバットの縁を揺らしてゆるやかに攪拌する方法に変更。
1枚でやる場合、バットの縁からの現像液の打ち返りで周辺だけ現像過多になるというのを読んだことがあったので、たまにフィルムの上下を指で挟んで液中で細かく動かす、ということも並行して行ったのですが、結果はやはり周辺の現像過多。これは仕上げの焼き込みが大変そう・・・。

2枚で繰り現像すると、乳剤面に当たる液量が制限されるのでこういった現像ムラは起きにくい、と以前職場の先輩に聞いていたので、八切の頃からそうしていたのですが、傷を嫌ったために今回は周辺のムラ・・・ううん、難しいですね、バット現像(昔は「皿現像」と呼ばれました)。
ならば次は、現像液の中にフィルムを沈めては空中に抜き、沈めては空中に抜き、の「繰ったつもり現像」で行ってみます。

試行錯誤は続く。
しかし、大判写真は楽しい! 
ノクチルクスに「おととい来やがれ!」と言い放てる被写界深度の薄さ。35mmフィルムの60倍に相当する受像面積(GRデジタルと比べたら何と1400倍!)。
自分でも欲しくなって来た・・・・

どなたか、8×10のカメラを手放したい、という方がおられましたらカマウチまでご一報くだされたく! そのカメラの後半生、私が使い倒して差し上げます!


  1. 2011/02/04(金) 07:30:19|
  2. 写真
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