
なんだか写真以外の話がしばらく続いたので、たまには真面目に写真のことを考えてみようかと。
大体どうして僕は写真を撮るのか。
・・・・・・
自分でわかってることは、過去に撮られたある種の写真たち、世界中の、有名無名な写真家に撮られてきた数々の写真があって、何とも説明の出来ない、得体の知れない魅力と謎を持ってそこに屹立しているということ。
森山大道の三沢の犬でもいいし、クーデルカの楽器を弾くジプシーの写真でもいい。フリードランダーが我が娘を写したモノクロでも、ダイアン・アーバスの障害者施設の写真でもいい。
今まで僕の度肝を抜いてきたある種の写真たち、その度肝の抜かれ方を、僕はうまく言葉で説明できないのですが、圧倒的な力を、抜かれた心臓の痛みで覚えているわけです。
しかしさらにびっくりすることには、そういう写真の力を(残念ながら常にではないのですが、ごくまれに)自分の写真からも感じることがあるということ。
自分の撮った幾枚かの写真の中にも、撮った本人の心臓を抜いていくような、そういう力を帯びたものが、まれとは言いながら、確実に存在するわけです。
これはよく考えたらおかしなことで、しかしもっとよく考えたら別におかしいことでもないのかもしれない。
別に僕に特殊な才能があるわけでも何でもない。そういう写真が撮れたとして、そんなのまぐれだとか、偶然だとか、そう言われても別にかまわない。というか、偶然やまぐれを味方にできるというのが写真の特性であり、むしろそういったものを味方に付けていけば、自分の現在の美意識というものを壊すものさえ作れる、というのは、写真という表現ジャンルの、ある種特権でもあるわけです。
写真機という、自分の血肉ではない異物を使ってしか写真は撮れない、その異物が生み出す自分の美意識との微少な差異が、美意識自体を食う。
森山大道の三沢の犬は、シャッターを押す前に森山大道が頭の中で完璧に設計図を描いたそのまんまが写っているのかというと、そんなわけはない。
あるひらめきとか感応があって、写真家はカメラを向ける。ある程度の予測と、その予測に近づけるための写真機への習熟と、それがどういう露光を得てどういう画を得るかという技術的知識があって、シャッターが押される。
しかし、写真は絶対に何かを裏切るのです。
その裏切りが、時として心臓を抜くような力を持つ。不意打ちのようにそれはやってくる。
僕は小粋な言葉は使えないので、単刀直入に「写真の謎」と呼んでいます。そのまんまやん、と言わないで下さい。本当に謎としか表現しようがないのです。
その謎と格闘することが写真を撮るという行為の唯一の動機なのですが、その謎は踏み込めば踏み込むほど自分の美意識(と仮に呼んでいるけど、この「美意識(仮)」自体も、自分の中の謎みたいなもんですよね)は組み替えられ変形していくわけですから、この「謎と格闘する」ということ自体の意味すら、よくわからなくなってきます。謎が謎に食われるとでも言うか。
・・・・・
僕が撮る写真には特定の被写体というのはなくて、何か自分を裏切ってくれそうなものを探して歩いている感じ。
比較的人物の写真が多いのは、人物写真がいちばん自分の意図を裏切ってくれるからです。
人を撮ると、必ず事前に思い描いた画よりも、良くも悪くもズレてくれます。逆に思い描いたとおりに写ってしまったりしたときには、自分でまったく面白いと感じない。やはり何らかの裏切りを期待してシャッターを押している部分があるのです。
被写体というのは、正直、別に何でもいいんだろうと思います。謎に一歩踏み出すためのきっかけでしかない。
人物を撮っても、僕はもちろん、その人物写真でその人の中の何かを「表現」しようなんて露とも思っていません。撮ればその人の何かがわかるなんてのも、もちろん嘘に決まってる。
でも撮影者の、そして被写体の思惑も無視して、何かが写ることがある。その何かが写ってしまうという、写真のからくりが、僕にはとても興味深く思えるのです。
- 2008/04/16(水) 23:46:50|
- 写真
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OK,Darling. But What is Photograph? (2) |
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ん〜こむずかしい。でもカマウチさんの、そのこむずかしいとこが好きですけどね(笑)でも、自分がやってることの意味を考えないっつうのはちょっと寂しい話であり、勿体ない話であり。だからといって考えなきゃいけないってこともないとは思いますが。。。
才能って言葉が出てたので、それにちょっとぶら下がってみると、
才能なんてものは人が生きていく上で何のタシにもならんと常々思います。無いよりある方がマシって言えなくもないけれど、あったからって、それを活かす方面に自分の興味がまるで向かなければ、結局鼻毛みたいなもんですよ。これ案外勘違いしがちだし、こんなことを考えることすら普通はしないかもしれないですが。何で鼻毛かって、自分の意志とは裏腹に鼻毛は生えるわけですよ。しかも伸びる。どうでもいい、そんな話は(笑)
とどのつまり、写したいから写す。写したい自分が、ずっと写せるように願う。だから写す意味を考える。写す環境を作る。それがひょっとしたら自分が生きるということのタシにはなるのかもしれませんね。少なからず、そこまで深化した人の写真は興味があります。しかし、これも一つの意見にしか過ぎませんが。私はそうです、というだけですね。あげく、まったく次元の違う考えのもとでポロっと生まれてる写真があれば、それも興味の対象でしょうけど。結局。
- 2008/04/18(金) 09:46:31 |
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- shingai #R9kCICmI
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相原コージの『コージ苑』(なつかしい)に、「このオバサンは物理学者になったらノーベル賞を獲れるほどの才能を持っている。でも彼女は八百屋のおかみさんだ」というのがありましたが(笑
鼻毛の比喩は大爆笑。どこかで使ってみたい。by shingai、って付けて。
自分の撮る写真に、なんか理屈を付けたい今日この頃。もちろんこんなことずっと考えてシャッター押してるわけじゃないです。
でも写真って、撮る過程と、選ぶ過程に分かれますよね。とりあえず撮っとく。できれば、頭の中から可能な限り理屈を追い出した状態で撮る。言葉を介在させずに撮る(これがなかなか難しい)。
で、選ぶ時点で理屈が必要になる。理屈、じゃないな、なんだろうか、自分を納得させるための何か。何らかのロジックをもって選ぶんですが、たまに、このロジックの座標軸からずんと外れたのが出てきて自分がびっくりさせられる。
ああ、この外れ方もアリなんだ、と、受け入れた時点で座標軸の傾きが変わるというか、許容度が拡張するというか。
その拡張の過程がたまらなく好きで自分は写真を撮ってるんだということです。
だから僕の写真は全く自分にだけ向いたものであって、外にはまったく向いてないんです。非常にわかりにくいと言われる所以です。
意図から外れる何かが欲しいというなら、最初から意図など持たなければいい、という意見もありますね(笑
昔、広角レンズをつけてノーファインダーでスナップしてた人達なんかはそういうのを目論んでたんでしょうか。
でも、それも違うんだなぁ。
欲しいのは「違うもの」じゃなくて、あくまで「違和感」、なのかな(笑
やっぱり自分の中にある核みたいなものは、ちょっとずつしか変わらないんですよ。
イリザロフ法って、折れた骨が自然に折れた部分を修復していく力を利用して、わざと骨折状態を作って骨を延長する治療ですが、完全に粉砕しちゃうと、もちろん骨はもう伸びない。例えが大袈裟か(笑
自分の骨の力に応じて延長施術をかけていくというか・・・・ああ。やっぱり例えが適切でないなぁ。よくわからなくなってきた。
>ん〜こむずかしい
何を言ってるんですか。shingaiさん、あなたも相当こむずかしいですよ(大笑
- 2008/04/18(金) 10:59:14 |
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- カマウチ #7HtI5gQY
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ははは。要するに(すいませんまとめちゃっていいですか?笑)
カマウチさんはブレークスルーのポイントを探ってるってことですよね。それやらないと万事自己模倣になるし、ワクワクしない。あげく、それなりに「写真の世界」のアウトプットを見ているから、自分のアウトプットに対比の目も肥える。なので、「撮った」ものを「選別」する際に色々と"理屈"も入り込んでくる。余計に。
という感じですよね?
さて、そのうえで「ブレークスルー・ポイント」を探るとなると、自分はもとより人様にとっても「理解の外」となりかねんものになる。となるとモノサシが無いから、自分でも「これええと思うねんけどなあ、でも周りはわからんよなあ」とか、色々うじうじしてみたり(笑)勿論、かなり次元の高い「目」と「感覚」が備わって・・・というのが大前提ですけどね、この話。
さてさて。写真を理屈無しで撮るって本質的に無理だと思いますよ。理屈を超越したところで撮った、撮れたってのはあると思いますが。これは単に理屈無しというのとは全然違うと思います。考え抜いた、思いを馳せ、思い抜いた先に理屈無しというのが来るのはアリだと思います。
つまり、上手くなってから下手になる。という感じでしょうか。
もっというと、写真は撮る前から撮れている、実は。という感じですよね。
私はそう思います。
参考までに、コレみてください(笑)
私のこのこむずかしいレスが一発で理解できそうな(笑)
http://jp.youtube.com/watch?v=oa5fpGE1rv4
- 2008/04/18(金) 16:02:45 |
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- shingai #R9kCICmI
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ちょっとボヤけたので、追記。
要するに、考え抜き思い抜き・・・その先で、ぱーっと拡散する。
そっから出てきたものは、おもしろいって。そんな感じではないでしょうか?
そして、「考え抜く」「思い抜く」ってのは、その行為そのものが目的ではなく、前に前に転がっていく人間の本能からもたらされる、振れ幅みたいなもんだと思います(バランスっちゅうやつですね)。その振れが大きい人って面白い人が多いですよね。魅力的。
- 2008/04/18(金) 16:06:19 |
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- shingai #R9kCICmI
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shingaiさんが僕にこれを見せようと思った意図とはズレて(笑)、乱暴な解釈が浮かびましたよ。
ドラム・ベース・ギター・ヴォーカルの編成で、徳永英明の阿呆な歌も歌えれば、ヴェルヴェッツの凄いテンションも生み出せる。
音楽の凄さは楽器の編成ではないのだ、と。
尾仲浩二が「モノクロからカラーに変えたとき、アコースティックギターをエレキギターに持ち替えたような感覚があった」と言ってました。
既存の楽器で何が出来るかを追求する時期があってもいいですよね。
新しい楽器を生み出さなきゃ新しい音楽が作れないわけではない。
(1)と(2)のテーマまでこんがらがって、しかも全然違う意味で納得したフリをしている・・・。
こういう変な悩み方でも、その先に面白い何かが待っていますかねぇ(笑
- 2008/04/18(金) 23:35:54 |
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- カマウチ #7HtI5gQY
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近いかどうかはわからないんですが、私の場合、テンションかけたいって思いますねー。楽器の話が出たので書いてみますけど、同じギターを弾いても同じメロディで同じようなスキル。でも弾く人で全然違うわけですよね。グルーブとかテンションとか。「自分の撮る写真に何か理屈をつけたい」ってのは、理屈じゃなくて、テンションみたいなもんじゃないですか?1音にどれだけテンションかけていけるか。ちがったらごめんなさい〜。
- 2008/04/19(土) 19:30:15 |
- URL |
- shingai #IrJaPXh.
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合ってる、合ってないじゃなくて、皆さんから理屈を募集してる、みたいな感じ(笑
いいのは全部もらっちゃえ。
説明をつけなきゃいけない、というのは、よく考えたら思い込みなんですよね。
現代アートはとにかく自分を「説明」出来ないといけない、という安友志乃さんとかの言うことに、なんとなく違和感を感じつつも従おうとしていたわけで。
写真はアートであって、アートでない、という基本的なところまで戻って話を考え直さなきゃいけませんね。
写真にコンセプト、テーマ、説明というのが必要かどうか、というあたりを、次に考えようと思います。
- 2008/04/19(土) 20:03:28 |
- URL |
- カマウチ #7HtI5gQY
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>頭の中で完璧に設計図を描いたそのまんまが写っているのかというと、そんなわけはない。
>あるひらめきとか感応があって、写真家はカメラを向ける。
その意味において、この上におかれた3人の男の写真は、死ぬくらい好きです。同じ意味で、手前みそですが、ボク自身の写真で「茶屋町の白と黒の2人の女」(
http://www.flickr.com/photos/maggot/78538560/)も死ぬくらい好きです。これだから写真を撮っているのだと思っています。
>その裏切りが、時として心臓を抜くような力を持つ。不意打ちのようにそれはやってくる。
神様がやってきたぁ〜とシャッターを切るんだなんてのたまう御仁がいるのですが、
写神なんて、ボクらのようなものには見えませんよ。おこがましくて、写神様にむかってシャッター切るなんて、とてもとても。ただ、ときとして写神様がニコっと写っててくれるのです。
- 2008/04/20(日) 01:58:08 |
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- まご #-
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