OK,Darling. But What is Photograph?

カマウチヒデキ kamauchi hideki

12月19日

hinako071219.jpg


あれからなんと1年です。
たった752gで生まれたヒナコは十倍近い7000gになりました。
3ヶ月も早産だったので実際は9ヶ月相当の修正齢ですが、法律上は立派に1歳です。
千船病院の方々、本当にありがとう!
そのほか、いつも助けてくださる方々に感謝を!


  1. 2007/12/19(水) 00:18:46|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:17

ある家族の風景/山田風太郎/昔のネガ

earlyphoto071217.jpg


昨晩遅く阪急電車車内での4人親子。父、体格良し。ややトミーズ雅に似る。母、地味な友近、という感じ。二人姉妹、上が小五、下が小三くらいと見た。
食事帰りらしく、父、多少酔っている。
酔っているせいか、元々なのか、声でかい。

姉 父ちゃん、おかし食べたい。
母 電車の中でおかし食べたらあかん。
姉 いいやん、いいやん。
父 食え食え。なんぼでも食え。
母 もう、酔っぱらいー。
父 とんがりコーン、チーズ味。とんがりコーン、チーズ味(歌うように)
姉 とんがりコーン好きやー。
父 そうか、父ちゃんも好きや。形がな、父ちゃんの好きな巨乳っぽいやろ。巨乳、巨乳。
母 でかい声で何いうてんの。
父 巨乳はええで。お前ちゃうけど。
妹 ジャスミンティー。
父 (ペットボトルのジャスミン茶を渡す)ほい。
妹 ジャスミンティーとトンガリコーンは合うねん。
父 巨乳とジャスミンティーは合うんか。そうか。
母 えらい遅ぅなってしもたなー。
姉 帰って宿題すんのいややー。
父 いややったらせんかったらええ。
母 何言うてんの、あんた。
父 宿題せんかったからって世界が変わるんか。宿題せんかったからって不幸になるんか。
姉 先生に怒られるやん。
父 先生に怒られたらこう言え。「この宿題をしなかったからといって、私の人生になんぼほど悪影響が出るっちゅーんですか。これが何か私の人生の役に立つっていうんですか。たかが宿題じゃないですかー」ってな。言え。言うたれ。どーんと。
姉 言われへんわ。そんなこと。
父 宿題なんかくそくらえー。
妹 あージャスミンティーはおいしいなぁ。
父 お、もうすぐ神崎川や。父ちゃんはここで降りるからな(席を立つ)。
母 どこ行くのんな。
父 巨乳のとこに決まってるやろ。ミサキ、お前は園田、ミユ、お前は塚口で降りろ。母ちゃんは伊丹まで行ってまえー。
母 なんで別々にならなあかんの。
父 これからはみんなバラバラに生きて行くんや。
妹 ジャスミンティーはおいしいなぁ。
父 (電車が神崎川駅に着く)ほなら。さいなら(本当に降りてしまう)。
姉 ほんまに行ってもたー。
父 (別の扉から再び入ってくる)父ちゃん、家族愛に目覚めたわ。やっぱりお前らと一緒に帰ろ。
母 どっちでもええねんで別に。
妹 ジャスミンティーなくなってしもた。
父 ジャスミンティーくらいまた父ちゃんが買うたる。家族愛やからな。ふはは。
姉 ああ、宿題いややなー。
妹 ジャスミンティー。

そしてみんなで園田駅で降りていきましたとさ。

・・・・・・

山田風太郎『戦中派不戦日記』、なるほどこれは名著です。息つく暇なく読ませます。
今ちょうど佳境、終戦の日を過ぎました。玉音放送のシーンがすごい。
僕は『魔界転生』も『甲賀忍法帖』も、今まで1冊も山田風太郎を読んだことがなかったのですが、俄然興味がわきました。
終戦時点で400頁。残りまだ300頁もある幸せを噛みしめています。

・・・・・・

必要があって、昨晩遅く12年前と15年前のモノクロネガを探索。見つかったけど、ネガシートの圧着で化学変化を起こしたか、ムラっぽい汚れがあり、また傷やネガのヨレもある。
汚れはクリーニングしたらとれたけど、今後、古いネガの状態は悪くなる一方なのだから、これはと思うものは全部プリントしておかななくては。

写真を始めた頃の数年間のネガやベタ焼きを久しぶりに見た。青臭くて恥ずかしくなるようなコマも大量にあるけど、その中にたまーに、びっくりするような、我ながらかっこいいものもある。
新しく撮るよりも、昔のネガをプリントすることに熱中してしまいそうな気が(笑)。
いやほんと、「初期のカマウチヒデキ」なんつって、展示やりたいくらい。
・・・・そんなお金ないけどさ。





  1. 2007/12/17(月) 20:37:07|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

メモ書きのようでごめんなさい

truck071215.jpg


自分は幸福な家庭を見るとき、いつも胸の中で何者かが薄暗く首を垂れるのを感じる。そしてまたその首が薄暗くもちあがるのを感じる。その首がつぶやく。この不幸がやがておれの武器となる、と。ー
(山田風太郎『戦中派不戦日記』六月一日)

かっこいいと思ったので、備忘的引用。

・・・・・

首痛が治らない。接骨院に行ったのに治らない。慢性化してる。
ヤマナカさんにもらった和興白花油がもうなくなりかけ。首痛の一時凌ぎ用であって、根治にはならないんだけど、なくなったら辛い。
誰か台湾か香港行く人いない? 買ってきてー。

・・・・・

シュレ子(29歳)が
「最近年下(24歳)の男の子と話していて、『食指が動く』っていう言い方をしたら『意味わからん』て言われたんですよ。日常の会話で『食指が動く』ってのは変ですかねー」
と聞くので、まぁ使い方によるだろうなぁ、まったく使わない言い回しじゃないよなぁ、と考えてみる。
被写体として絶好の物体を見つけて「あたしこういうの見たら食指動くねん」みたいな使い方なわけで、言い換えてみれば「(被写体として)ソソる」ということである。

自分は普通に使うのに、他人の前で使うと「何それ」みたいな顔をされる言い回しって何かないだろうか。
「血道(ちみち)を上げる」って、よく使うんだけど、あまり理解されないみたい。「しょーもないことに血道上げとる場合やないで」、みたいな使い方。のぼせ上がるとか、夢中になるとか、そんな感じの意味。
大阪弁的慣用句? 大阪でも使う人少ないかも?

・・・・・

大阪弁的慣用句、で思い出したことをついでに。
僕は「ら抜き言葉」のことをうるさく言う人の気持ちがわからない。文体的に相当親近感を持っている文章家がみな「ら抜きは許せない」と書いているのに、そこだけにどうにも同意が出来ない。
何故だろうと不思議に思っていたら、何のことはない、大阪弁は「ら抜き」が当たり前なのだ。
「見れる」は僕らにとって「ら抜き」なんじゃなくて、単純に大阪弁だったのだ。
と、ごく最近気がついた。






  1. 2007/12/15(土) 21:33:42|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:10

植田正治新刊/旧Fotologue時代の写真/など

071119rainynight.jpg


求龍堂から植田正治の新刊出てました。『僕のアルバム』2300円+税。
「植田正治の没後発見されたネガの束より編纂した妻を被写体とした1935〜1950年代の未発表写真を綴った夫婦愛の軌跡。」(求龍堂HPより)

う〜ん。奥さん、かわいいっ!
世界的写真家の専属モデルに向かって畏れ多くも「かわいいっ!」なんて、とは思いつつも、あああ、本当にかわいい。
藤代冥砂や上田義彦等、家族写真の名作、最近花盛りだけど、植田正治はもう別格。
おすすめです。買って損はしません。
てか、まぁ買って損する植田正治写真集なんてないけどね。
僕ですか? もちろん即買い。
買ったあと、財布の中を見たら730円しか残ってなかった。次の給料までまだ1週間近くあるのに。
730円って、40歳男性の財布に入ってる額じゃないな。ああ恥ずかしい。

・・・・・・

ところで求龍堂の植田正治写真集はこの『僕のアルバム』にせよ前の『吹き抜ける風』にせよ、タイトルどうにかならんか、と思う。
いやほんと、どうにかならんかな? つまんない意味付けとか植田正治の写真にはいらないから。植田正治写真集、でいいってば。

・・・・・・

「六十五年間読書にすごせし、わが一生、本の終焉と共に終らんとす。わが青春は『雄弁』時代の終りと接続す、有名人の講演会に行ったことなく、一人にて読書黙思す。現代は再びおしゃべり時代となる。しかし本は思想を活字に固定して、繰返し検討に堪ゆ。あまり悪くない一生を送ったような気がして来た。ふしぎな歓喜の一瞬だった。」
(大岡昇平『成城だより(下)』講談社文芸文庫)

沁みるなぁ。僕は当然大岡昇平ほど読んでないけど、あと(大岡昇平のこの当時の年齢まで)三十三年、同じ感想が吐けるまで頑張ろうと思う。
写真は楽し。読書も楽し。配分が難しい。

大岡昇平、この本の別の場所でグールドの『ゴルトベルク』(82年録音盤)を誉め、グールドは好きでレコード10枚くらいは持っている、と書いていた。
ますます好きだ大岡昇平。たまらん。

・・・・・・

eBayオークションに僕の写真を出してくれているGallery Deep Spaceさんが、販促用のフライヤーを作りましょうというので、載せる写真を選ぶためにここ数年のうちに撮った写真をざっと見返してみた。
2005〜2006年の、旧Fotologue時代の写真を見て、ため息。
自分で言うのも何だが、もうびっくりするような集中力で写真を撮っている。凄い!
凄い、なんていうと傲慢に聞こえるだろうが、まぁ僕の写真が、という意味ではなくて、写真に向かう姿勢が、ということ。
こんなテンションで写真に向かい合うなんて、もう出来ないんじゃないか。
ヒナコが生まれたり、生活上大きな変化があったから、と言い訳するのではないが、今はこんな凄まじい没入の仕方はできない。
もちろん、こんな没入の仕方ばかりがいいわけじゃない。多分この頃は今みたいに本読んだりもしてないだろうし、あんな没入ぶりだとかえって見えなかったこともあっただろう。

でも、あんな熱意で写真に関わるなんて、最近Fotologueの悪口ばかり書いてたけど、やっぱりFotologueがきっかけだったんだから、お礼を言わなきゃいかんな、と思う。


Book of Days 2005
Book of Days 2006
Book of Monochrome

  1. 2007/11/19(月) 01:15:17|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

フォトショップCS3

071013ueda.jpg


かれこれアドビ・フォトショップで仕事をするようになって10年以上になる。
最初はバージョン4.0 for Macの時代だ。UNIXのフォトショップなんかバージョン3.0だったもんな。バージョン3って、2画像間での選択部分やレイヤーの移動がドラッグでは出来ないんですよ。よくあんな不便なソフトで作業してたもんだ。
僕が最初に買ったMacは4400という、今や誰も覚えていない機種。G3の直前に出たやつね。内蔵HDは2GB、メモリは最大積んでも160MBだったなぁ。

職場に、どういう風の吹き回しか、やたら社長の気前が良くなってMac ProとフォトショップCS3が入った。すさまじく快適。CS、CS2と、なんか進化したんだかどうなんだか、みたいなバージョンアップだったけど、CS3はちょっと「ほほう」ってな感じ。よく錬られた感じがする。使い勝手はすこぶるよろしい。
モニターもずっと使ってたソニーのCRTがついに死んでしまったので、EIZOの液晶になった。安い製品だけど、なかなか見やすい。さすが腐ってもEIZOですな。

(ちなみに家で自分の写真を扱ってるのはiMacです。フォトショップはCS。タブレットは素人用のFavo。職場のMac Proに慣れるとさすがにイライラが募るが、自分用に50万円近くするMac Proを買う経済力は僕にはない。)

というわけで、銀塩カメラがどうとか、白黒の引き伸ばしがどうとか、アナクロなことを常時ほざいてるカマウチですが、実は仕事はフォトショッパーだったりする。
ははは。意外ですか? しかも十年選手。

と、フォトショップ歴を誇るために書いてるんではない。
その十年選手の僕が、ずっと若い同僚に最近教えてもらった技。
「焼き込みツールを使いながらoptionを押すと、覆い焼きツールになる。逆も同様」
し、知らんかった・・・・。
技、とかいうレベルでもないやん。頻繁に使用する焼き込みと覆い焼きを、いちいちツールパレットで切り替えて使っていた僕。
うおおお。option押すだけで切り替えられるとは!

長くその道に慣れれば慣れるほど、自分の使い方に固執して、頑固になってしまうのかもしれない。使い勝手を改善しようという意欲が足りなくなっとるのかも。ちょっと勉強熱心な人なら簡単に見つけるであろうTipsですもんね。
いかんいかん。

・・・・・

前にも書いたけど、僕はアマチュアにしてはそこそこ読書量の多い人間だろうと思うのですが、斎藤美奈子と斎藤澪奈子の区別が出来てなかった。しかも澪奈子はともかく、美奈子の方はわりと読んでるはずジャンルの人であって、これを知らないというのは、まぁ、フォトショップで「コマンド+M」がトーンカーブであることを知らなかった、くらいの初歩的ミスな気がする。

例えが煩雑でショックが伝わりませんか? すみません。

焼き込みと覆い焼きをoptionで切り替える、っていう技は他の分野に例えればどれくらいマニアックな知識なんだろうか。
かまやつひろしと森山良子がイトコだよ、くらいかな。え、そんなのみんな知ってるって?
じゃあ森山良子の娘で、最近芸人と結婚した人はペティ・ブーカの2代目ペティで、最後はブカちゃんまで交代したのでオリジナル・ペティ・ブーカは1人も残らず、結局ファンがついて行かなくて消滅して・・・・・もういいって? そうですか。いやぁ、初代ペティ・ブーカが好きだったもんで。

・・・・・

ついでみたいに書くけど、Fotologue退会しました。
これからはFlickr一本です。よろしくお願いいたします。


  1. 2007/10/13(土) 22:58:18|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

双津竜の太股と尻

070928inout.jpg


脳味噌というのは、よく使う知識には太い回路が通じていて、あまり使わない知識はどんどん回路が細くなっていくらしい。
でも細いながらも回路自体はなくならないので、ごくつまらない、アホみたいな昔の知識も脳の隅っこに残っているようだ。

僕も40歳を越えて記憶力がかなり危うくなってきたのでハードディスクの中身を整理するように脳の内容も整理整頓したいものなのだが、さすがにゴミ箱へドラッグ、なんてわけにもいかない。
年を食って記憶力が減退するのは、やっぱり脳内ハードディスクの容量と関係があるらしく、要するに飽和寸前ということなのだろう。少ない残容量に無理矢理分断して知識を入れるから、最近の知識ほど忘れやすく、アホな昔の知識は忘れない。

時津風部屋の虐待死事件の記事を読んでいて、今の時津風親方が昔の双津竜だと知った途端、眼前に巨大で汚い太股と尻が広がった。僕が小学生の頃に現役だった力士である。でかくてブサイクで、太股と尻が汚かった。

「双津竜 = 太股と尻が汚いでかくてブサイクな力士」
こんな些末な記憶が、三十年間まったく使いもしなかったのに僕の脳の隅に残っていたのである。まったく脳内ハードディスクの無駄遣いである。昨日食った晩飯も思い出せなくなることがあるのは、この双津竜の尻のせいかもしれないのだ!

しかし、その双津竜の汚い太股と尻を唐突に思い出してしまったとき、なんだかちょっと愉快だったことは正直に白状しなければなるまいが。

・・・・・・

藤原新也がブログで「人が死ぬというのは100テラのハードディスクが一瞬にして無になることだ」と書いていた。こればっかりはどんなファイルサーバーでもバックアップできない。
だからせめてその場その場の痕跡を残したい。写真を撮るとかブログに駄文を書くとかは、そういう悪あがきの一部なのだ。無理矢理理屈をつけるならば。

まぁ、双津竜の太股の話にその価値があるかどうかは別として、だが。

・・・・・・

夜、ギャラリーmaggotに寄る。寺田正春写真展『ニライカナイ1』開催中。
ああああ。もう数年沖縄に行ってない。猛烈に行きたくなって来た。
大木さんの書棚にアラーキーの『遠野小説』(風雅書房)発見。例の、発売直後に回収された藤田朋子の写真集だ。中身を見るのは初めて。
う〜ん、藤田朋子、アホだ。ものすごくいい写真集なのに! ちょっと予想外に良かったのでびっくり。あれの回収騒ぎなんか起こすからいまだに『渡る世間』しか仕事ないんだよ。アホやなぁ。
みなさんmaggotに行ったら藤田朋子、見せてもらってください。さすがアラーキーです。

・・・・・・

大岡昇平『成城だより』(上下2冊 講談社文芸文庫)購入。
しかし講談社文芸文庫って、なんでこんなに高いんだ? たかだか400ページぽっちの文庫が1冊1500円もする。上下2冊で3000円って、文庫の値段じゃないよ。
田川建三の未読『思想の危険について 吉本隆明のたどった軌跡』(インパクト出版会 3150円)も買おうと思ってたのに、合計したら6000円を越えるのでビビって今日はやめ。最近金銭に関して小心者(笑)






  1. 2007/09/28(金) 20:37:59|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

またまた出血の話

070926ear.jpg


朝起きたら左手の中指と人差し指の先に血が付いていた。
切ってしまった指からまた出血したのか???
いや待て、こないだ包丁で切ってしまったのは親指だ。落ち着け。まだ寝呆けてるのか。

指から出血しているのではなかった。指の血は拭いたらとれた。どこか出血している場所を寝ている間に触ったのだ。

よく見ると枕にも直径1cmの血痕が。
「・・・・・」
鼻血? 鼻を触ってみる。血はつかない。鼻の穴に指を入れてみる。違うみたいだ。
じゃあどこなんだ? この血は何だ?

ベッドから起きあがって、着ていたものを脱ぐ。どこも怪我はしていない。素裸になって点検する。どこも血なんかついていない。
自分で見ることが出来ないところから出ている、ということは、顔から上なわけである。鼻血ではない、とすれば、そうか、耳か!

左耳に恐る恐る指を入れてみる。乾いて粉になった血が指先についてきた。

「耳から血が出ている!」

あああ、字で書くだけで恐ろしい。

高校生の頃、住んでいた堺市で、ほんの目の前で交通事故を目撃したことがある。軽トラと二人乗りの原チャリが交差点で激突し、運転していた僕と同年代くらいの男の子が吹っ飛んで路上に大の字にひっくり返った。ピクリとも動かず、口から血のカタマリを吐き、耳から細く血が流れていた。多分、死んだのだと思う。

耳から血、といえば、その光景をまざまざと思い出すのだ。

とにかく、アルコールで耳の中を消毒する。ピリリと痛むので外傷性だとは思うものの、不安になってGoogleで検索する。「耳 出血」。
下顎打撲による外耳道前壁の骨折、側頭骨骨折、もしくは外耳の外傷。
それくらいしか出てこない。側頭骨を骨折している気配もなく(してたら怖いって)下顎を痛打した記憶もないので、まぁ、外傷だろう。外傷でないと困る。

しかし、枕カバーを2枚浸透して枕本体に到達するくらいの血痕だよ。どれだけ出たんだ一体。

気になるものの、あえて気にせず仕事に出る。
仕事をしながらも気になってしかたがない。耳の穴がむずむずするのでそっと触ってみたら、剥がれたカサブタ状の血がコロンと出てきた。剥がれるときにまた傷が出来たのか、ピリピリ痛み出した。
・・・やっぱり耳鼻科行こ。

結果は別に大したことはなくて、「はぁ、なんか知らんけど炎症起こしてるねぇ。血はもう止まってるから消毒だけしとくね」と、1時間待たされて診察は3分ですんだ。
寝ているあいだに耳に指突っ込んで引っ掻きまくったのか? 昨日の晩耳掃除したような気もするが、その時に知らず知らず、耳かきで傷をつけてしまったのか? 
ともあれただの外傷とわかって一安心。まだ気持ち悪いけど。

・・・・・・

あまり関係ない話で締めようと思う。
某インド料理屋(例のカンテではないところ)で一緒に働いていたネパール人のM君が、中休みに客席で昼寝していた(その店はランチ終了から夕方までいったん店を閉める)。
僕はその日は夜からの仕事だったので夕方店に行くと、M君が泣きそうな顔で
「カマさん、耳、耳、ウルサイデス! 耳、ウルサイデス!」
「耳うるさい? 何言ってんの?」
懐中電灯を当ててM君の耳を覗いてみると、昆虫の足のようなものが見える。
うわー。これって、多分アレだろうな。
道の向いに薬局があったので耳かきを買ってきて本人にホジらせてみると、出てきた出てきた。ゴキブリのバラバラ死体が!
哀れチャバネゴキブリはM君の耳の中で、耳かきによって惨殺されたのである。

ていうか、ゴキブリが侵入したくなる耳の穴って、どれだけ汚いんだよ。耳掃除しろよM君。
まぁ、昼寝してるスタッフの耳にゴキブリが侵入するレストラン自体が問題、という話でもありますがね。ええ。




  1. 2007/09/26(水) 20:26:35|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

痛い話

070918itai.jpg


昨晩包丁で手を切った。左手親指の先。爪がすぱっと直線に落ち、落ちた爪に直径4〜5mmの皮と、若干の「肉」が付いていた。

最近この包丁切れにくくなったなぁ、とは思っていたのだけれど。
切りにくいから、知らず、力が入る。昨日はそうやって葱を刻んでいたのだが、根っこの方から順に刻んで、先っちょの方、あまり新しい葱ではなかったので多少綺麗ではないのが数本混じっており、どこで刻むのをやめるか悩んでいるうちにやってしまった。

大して血は出なかったが、夜中になってジンジン痛み出した。むむ、指先だけに。うむむむむ。

昔は飲食店勤務だったので、よくこうした怪我はしていた。ヒビの入ったグラスを気づかずに洗っていて拳で押し割ってしまい、5針縫ったこともある(今でも右手小指に「5針」の縫い跡が見える)。
馬鹿な怪我としてはこんなのもある。友人と自分のアパートで飲んでいて、アテがなくなったので「何か作ったるわ」と酔っぱらっているくせに包丁を使い、魚を下ろすついでに自分の左手の平もざっくりやってしまった。阿呆である。
このとき学んだこと・・・酔っているとなかなか血が止まらない!
みなさん、酔っぱらって包丁持っちゃ駄目ですよ。経験者は語る。この時は3針だった。

某インド料理屋(カンテGとは別の)で働いていた時には、本当にその店の包丁は切れなくて、インド人の店長に「砥石を買ってくれ」と頼んでも「包丁、アマリ切レタラ危ナイヨ」なんて言われて買ってもらえなかった。違うよ、切れない包丁の方が危ないんだよ、と力説してもわかってもらえない。
で、仕込みで大量のタマネギを刻んでいるときに、やってしまった。左手人差し指の第二関節のところの外側の皮が、これも若干の肉と一緒に直径7〜8mmの円形に切れ、皮一枚で繋がっていた。
そのとき「あ〜あ」と思いながら、何を思ったのか、その肉付き皮を、自分で噛みちぎって、さらに何を思ったのか、食ってみた。肉は何の味もしなかったが、皮はけっこう固くて噛み切れなかったのでそのまま飲んだ。
見ていたインド人のコックさんが「アアア、カマチャン、自分ノ肉食ベタヨ!」とびっくりしたので、僕もびっくりした。
そうだよ、何で食ったんだろう。うろたえていたんだろうか。自分の行動が意味不明。

花博でパレードのぬいぐるみの仕事をしていた頃、休憩時間中にバックヤードの鉄柱で頭をぶつけ(電球が切れていて真っ暗だったのだ)、出血したが、パレードの時間が迫っていたので、頭にタオルを巻いてそのままダチョウのぬいぐるみに入ってパレードをこなした。
帰ってきてぬいぐるみを脱いだら、周りの人間が悲鳴を挙げた。頭に巻いたタオルが血で真っ赤になっていたのだ。
「早く医者行って来い!」
パレードの進行スタッフが大慌てで叫んだ。
救急の医者に行ったら
「なんでこんな怪我したんや」
「鉄柱でぶつけたんです」
「嘘つけ、喧嘩やろ」
「違いますよ、バックヤードの電球切れてて、暗くて、気がつかなくて・・・」
「鉄パイプで殴り合いしたんと違うか」
「違いますって」
そんなことより、早く頭縫ってくれよ!
経験者は語る。頭の肉は薄いので、麻酔も、縫うのも、とっても痛い。

昨日、包丁で怪我をするその直前まで、大岡昇平の『俘虜記』(新潮文庫)を読んでいた。
ちょうど俘虜収容所に、手の平を銃弾に貫通された兵士が運ばれてきたところだった。
迫撃砲にやられて体がふっ飛んだとか、手足がモゲたとか、そういう派手な話ではなくて、手の平を貫通された兵士が「ああ、もう職人の仕事に戻れないなぁ」と不運を嘆くリアルなシーンである。

指先をちょっと削いだくらいでこんなに痛く、不便なのである。手の神経を損なうほどの銃創を受けたら、どんなだろうか。
などと考えながら今朝の通勤電車でも『俘虜記』を読んでいたのだが、そういう描写を読むたび、ページをめくる指が痛んだ。

早く治らないかなぁ。


  1. 2007/09/18(火) 16:41:37|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:9

ばらソース!

bara070822.jpg



ああ。もうこれなしでは生きていけない!
あ、生きていけない、は大袈裟でした。

このソースと生きていきたい!
まだ大袈裟か。

神戸・長田の地ソースです。甘い中にもビリビリ来るスパイシーな味。独特のとろみ。

[OSAKASEVEN]のときに味噌とこのソースを差し入れに持ってきて下さったトギタさん。むむむ。そのセンスに脱帽です。あんなシブい差し入れ貰ったことがない。

で、そのとき以来、ばらソースの虜。
元々ウスターソースとかとんかつソースって好きじゃなかったんだけどな。オタフクとか、お好み焼きを家でするときに買ってくるんだけど、いくら関西の人間とはいえそう再々お好み焼き食べるわけじゃない。
たこ焼きもヤキソバも好きだけど、ソース1本使い切るほど頻繁には作らない。
結果的に、ソースってそんなに減らない。

しかーし。
このソースに出会ってからは、「このソースを使うために」メニューを考えるようになった。
ヤキソバの回数は絶対増えたね。
ヤキソバは断然塩・醤油派だったけど、最近は絶対ソース味ね。
ばらソース旨い。
ただキャベツの千切りにかけるだけでも十分旨い。

ありがとうばらソース。
ブラボーばらソース。




  1. 2007/08/21(火) 23:40:18|
  2. 日々
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:13

ペンギンに写真を学ぶ

070804penguin.jpg


調子に乗って、過去のことを蒸し返すシリーズ、第3弾。
つまらんと思ったら読まなくていいです。自分のための覚え書きみたいなもんだから。

・・・・・・

なんだかんだの紆余曲折の後、カンテGに復帰したのは1991年の春のこと。以後また3年にわたってカンテにはお世話になるわけだが、復帰直後、正直言うと僕はすっかりやる気をなくしてしまって、とてもローテンションな日を送っていた。

話が前後するが、前の日記で書いた花博のパレードスタッフをやる前は二年間カンテGで働きながら演劇活動をしており、当時扇町ミュージアムスクエアを中心に公演していた「ミュージアム原始願望」という劇団に在籍したり(伊藤えん魔さんや国木田かっぱさんと一緒に舞台に立っていた)、自分で役者をかき集めてプロデュース公演をやったりしていた。

しかし89年に原始願望が解散すると路頭に迷った(住むところがなくなった、という意味ではなくて、精神的な意味でね)。
元々おそらく役者には向いてなかったのだろう。どこか別の劇団で舞台を踏もうという熱意もわかず、さりとてせっかく関わってきた演劇からこのまま足を洗う踏ん切りもなかなかつかなかった。
知り合いの劇団で舞台美術を何回かやったりしてしばらくしがみついていたが、結局フェイドアウトみたいな形で舞台との関わりが切れていった。

花博のパレードに飛び込んだのはそんな時期の話。何だかやみくもに環境を変えてみたかったのだ。今僕に必要なのはうだうだ脳を使うことじゃない。体をいじめるような仕事をしたい、と思った結果である。

・・・・で、これまで書いてきたような花博生活、工場労働、Aさんとの飲食店開店話の頓挫があって、多少の借金も抱えて疲労困憊でカンテに戻ってきた。

帰ってみれば、相変わらず平和なカンテG。以前働いていた店だから仕事も慣れているし、ここの人たちは社長もスタッフも好きな人ばかりだ。別に店に不満があって辞めたわけではないから、復帰できたことは単純に嬉しかった。やはり生活のベースというものはないといけない。

しかし、先のアテというものが何もない。バイトの先輩だった松本さんや黒田君はとうとう東芝EMIと契約が成立して東京へ出て行った(実際にウルフルズが大ブレイクするのは3〜4年後のことだが)。べつに彼らを羨むわけではないけれど、同じような年の彼らが着実にステップアップしていくのを間近に見て、振り返って自分の何もなさに呆然とした。
まぁ、ウルフルズと自分を比べてどうすんのさ、という話なんだけど。

雨の夜に、カンテの前に置いていた通勤用の自転車を盗まれて、十三大橋をとぼとぼと傘をさしてアパート(塚本に住んでいた)まで歩いて帰ったことがある。
その時、なんだか自分の寄る辺のなさに突然愕然として、恐怖のあまり橋の上で腰が抜けたみたいに座り込んでしまった。誰も助けてくれないという不安は底抜けに増殖した。
つげ義春の傑作『無能の人』で「この広い宇宙で私たち3人だけみたい」と奥さんが嘆息する場面があるが、僕は1人でほったらかしにされたような気になって、宇宙のどこにも味方なんかいないんだと気弱になっていた。
今でこそこんな大雑把な性格になっているが、青年カマウチ25歳、こんな線の細い時代もあったのだ。

そんな鬱屈を常に抱えながら、ある休みの日、春頃だと思うが、天王寺動物園にふらふらと足を運んだ。
そこで、白い擬岩の上に、体表にキラキラ光る水滴を纏ったキングペンギンが5〜6羽、天を仰いで立っているのを見た。
あのときの衝撃を、どう説明したらいいのかわからない。今から思えば彼らの何にそんな衝撃を受けたのかも、実際思い出せない。
とにかく、とてつもなく美しいものを見た、というショックの大きさだけを覚えている。

恋は理屈じゃないのよ。そう、まさに脳天一撃の一目惚れというやつだったのだ。
もちろん今までにも動物園でペンギンくらい見たことはあった。しかし、その時の自分の精神状態の何かが変な具合に作用して、そのペンギンが特別のものに見えたのだろうか。こんな美しい鳥は見たことがないと思った。

わけもわからず、ただペンギンを見たくて、毎週天王寺動物園に通った。当時つきあっていた彼女(=今の相方)が持っていたコンパクトカメラを借りてペンギンの写真ばかり撮った。
金もないのに、一日に36枚撮りのフィルムを3本も4本も使うようになった。わけのわからない渇望感に駆られてガンガンシャッターを押すのである。

そのうち、そのコンパクトカメラ(オリンパスのAZなんとかという、さほどコンパクトでもないズーム機)では飽き足らなくなり、カンテのカンバラさんに相談をした。
やっぱり一眼レフを買うべきだろう、との答え。
当時「一眼レフ」というのが何なのかも、レンズが交換できるということも知らなかった。ニコンならF-801、キヤノンならEOS-100なんていうAF機が売られていた時代だ。

しかしカメラ屋で調べてみるとAF一眼レフは高い。レンズを入れて10万以下では買えなかった。
「中古で買えばいいやん」
カンバラさんが言うには、写真を真剣に覚えたいのなら、最新のAF一眼レフなんか買わずに、中古で安いマニュアル機を買って、安く上げた分フィルムを買って撮りまくった方がいい。また、便利なプログラム露出があるような最新機種よりも、絞り優先オート程度のカメラから始めた方が理屈もわかりやすい、と。
素直な僕はカンバラさんの意見に従ってニコンFEを中古屋で買った。生まれてはじめて自分で買ったカメラだ。

FEは何千枚、いや何万枚かもしれないペンギン写真を写した。
あいかわらず毎週天王寺動物園に通い、ペンギンの飼育員さんとも仲良くなった。天王寺ではじめてキングペンギンが繁殖に成功したときも飼育員さんから電話をもらって大急ぎでかけつけ、卵の殻から出たばかりの雛(僕が「モモ」と命名。「アカ」♂と「シロ」♀の子だったから)を撮らせてもらった。
以後1年間、毎週モモの成長を撮り続け、最後の換羽が終わって成鳥になるまで記録を続けた。
撮っているうちに写真の理屈も否が応でも身についた。
僕に写真の技術を教えたのは天王寺動物園のモモをはじめとするペンギンたちである。
とにかく、久々に熱中できるものに出会って、がむしゃらに撮りまくっていた。

そうやって天王寺に通いつめるうち、その飼育員さんの紹介で、日本全国の動物園のペンギン飼育者や研究者からなる「日本ペンギン会議」という団体にも出入りするようになった。93年12月には、そのペンギン会議が催した第一回南米チリへの野生のフンボルトペンギン調査にも参加。
その渡航費用や写真機材をまかなうために半年前から夜のアルバイト(別のインド料理屋)をかけ持ちして働きに働きまくった。まさにペンギンに淫していた。ペンギン中毒といってもよかった。

そのチリで野生のフンボルトペンギンに会えたことが忘れがたく、ぜひ来年以降の調査旅行にも参加したい。しかし費用は50万円かかるのだ。朝から晩まで働きまくってなんとか費用を捻出したが、一介のフリーターにはキツすぎる金額である。
「安定した収入を得られる仕事に就きたい」
初めて切実に思った。

動物園の飼育員というのが魅力的で、口はないかといくつかの動物園に問い合わせもし、知り合いの飼育員さんに口を聞いてもらおうとも考えた。が、一方で、せっかくペンギンに教わった写真の技術を生かせる仕事もいいかも、と考え、写真関係の求人も並行して捜した。
動物園の飼育員か、写真関係の仕事。どちらか先に見つかった方に就く。そう決めた。

そして、今の写真の仕事に就くことになった。94年、27歳のときだ。
以来13年、ちゃんと続いているところをみると、それなりの適性はあったように思える。
が、その写真の知識を教えてくれたのは、繰り返すが、ペンギンたちである。

・・・・・しかし。
「野生のペンギンに会うために定職に就きたい」
という当初の目的はどうなったか?
ペンギン調査旅行が実施される冬(南半球では夏)に僕の働く営業写真の業界は一番の繁忙期を迎えるという事実を、まったく調べもせずに就職した僕が愚かといえば愚かだったのだ。
そんなもの、参加できるわけがない。

いつしか、ペンギン以外の写真も撮るようになった僕は、暗室作業も覚えたりして、モノクロ写真に熱中するようになり、ロバート・フランクだのダイアン・アーバスだのといった写真家に傾倒していき、動物園にも行かなくなった。
ペンギン会議にも、もう何年も参加していない。僕の生活から潮が引くようにペンギンの影は消えていった。

でももう一度言うが、僕はペンギンに写真を学んだ。そしてその写真を仕事にして飯を食っている。そのことは忘れちゃいけない。

あらためてお礼が言いたい。
ありがとうペンギン! あのときのキングペンギンたちが、そしてチリで会ったフンボルトペンギンたちが、僕を今のここへ連れてきてくれたのだ。


参考: 「ゾディアック!」
  1. 2007/08/04(土) 21:16:54|
  2. 日々
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8
前のページ 次のページ